美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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[承前]

 〈出来る/出来ない〉というとき、
 われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
 行為能力の帰属について話をしている。
 つまり出来事を自己の能力において
 所有するか所有しないかを語っているといってよい。

 これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
 或いは寧ろ、
 可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
 その可能的な行為者(行為能力者)として
 己れに引き受ける(帰属させる)ということである。

 わたしは出来る、というとき、出来事はわたしから出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事はわたしから出て来ない。


 しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。

 わたしは出来る、というとき、出来事からわたしが出て来る。
 他方、わたしは出来ない、というとき、出来事からわたしは出て来ない。


 後ろの言い換えられた定式は、前のものと比較して明らかに意味が違っている。

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# by novalis666 | 2005-10-25 00:30 | 行為の出来
 不可能性の問題は、九鬼周造の『偶然性の問題』の〈後ろの正面〉に伏在する形而上学的悪魔の問題であるという風にも考えられる。

 この形而上学的悪魔は、『偶然性の問題』と同じ1935年に出版された夢野久作『ドグラ・マグラ』の有名な巻頭歌に、いわば〈恐れイリヤの鬼母子神〉として生々しく表現されたものと別ではない(cf.レヴィナス『実存から実存者へ』等:非人称のイリヤ il y a)。

 《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》と夢野は書いている。
 『偶然性の問題』と『ドグラ・マグラ』が同じ年に出版されたのはただの偶然で済まされる問題ではない。

 『ドグラ・マグラ』が黙示録的に曝露するのは、〈偶然〉などは「有り得ない」という〈悪魔の必然性〉としての不可能性の問題の削除不能なその伏在であるからだ。c0012656_1345445.jpg

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# by novalis666 | 2005-04-01 07:26 | 悪魔学

主への祈り

 イエス様。僕は十字架が嫌いです。
 どうしてあなたは二千年もの長い間
 そんな恐ろしいものに釘付けにされたままになっているのか
 僕には分かりません。痛いでしょうねえ。苦しいでしょうねえ。
 どうしてみんな黙ってみているんでしょう。ひどいじゃないですか。

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# by novalis666 | 2005-04-01 02:14 | 小品
[承前]

 出来事を有り得させるためには、
 その由来の説明が出来事に付加されねばならない。
 由来不明の出来事は不可解である。

 出来事についてその由来の問いは必然的に伴って起こる。
 如何にしてそして何によってその出来事は
 まさにそれがそうあったとおりに有り得たのかをわれわれは知ろうとする。

 出来事は単に現実的事実的に出来するだけではなく、
 再びそれが可能性の中心から説明的に因果的に出来することが
 出来なければならない。
 さもなければそれは出来しない出来事、
 出来ない出来事、出来損なった出来事、
 出来の悪いまたは出来上がらない出来事であるしかない。
 出来事は出来上がらねばならない。

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# by novalis666 | 2005-04-01 02:03 | 行為の出来
 出来事は出来する――というより、それは何処からか出て来る。

 出来事(event)とは出て来る事である。
 それが人から出て来ると看做される場合、出来事はその人に帰属する。
 人から出て来る出来事をわたしたちは「行為」(action, deed)と呼んでそう看做す。
 そこで、行為は行為者(agent)に帰属せられた出来事であるといえる。

 しかし一方、現実に具体的な行為者に出来事が帰属されていなくとも、
 或る出来事が行為であるかそうでないかは
 社会的経験的な現実原則によってほぼ予め決定されている。

 経験的に行為であることが確定している多くの出来事がある。
 そして、行為であるからには、それは何らかの行為者に帰属させねばならない。

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# by novalis666 | 2005-04-01 02:00 | 行為の出来
[承前]

 〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
 そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
 これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。

 〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。

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# by novalis666 | 2005-03-31 01:24 | 不可能性の問題
[承前]

 根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
 この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
 しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。

 存在は断定性である。
 断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。

 それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
 それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。

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# by novalis666 | 2005-03-31 01:21
[承前]

 存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
 それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。

 存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
 この胎児は無によって魘される。

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# by novalis666 | 2005-03-31 01:18 | 不可能性の問題
[承前]

 論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。

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# by novalis666 | 2005-03-31 01:10 | 不可能性の問題
[承前]

 九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。

 偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。

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# by novalis666 | 2005-03-31 00:16 | 不可能性の問題