[承前]
〈出来る/出来ない〉というとき、
われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
行為能力の帰属について話をしている。
つまり出来事を自己の能力において
所有するか所有しないかを語っているといってよい。
これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
或いは寧ろ、
可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
その可能的な行為者(行為能力者)として
己れに引き受ける(帰属させる)ということである。
しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。
後ろの言い換えられた定式は、前のものと比較して明らかに意味が違っている。
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〈出来る/出来ない〉というとき、
われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
行為能力の帰属について話をしている。
つまり出来事を自己の能力において
所有するか所有しないかを語っているといってよい。
これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
或いは寧ろ、
可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
その可能的な行為者(行為能力者)として
己れに引き受ける(帰属させる)ということである。
わたしは出来る、というとき、出来事はわたしから出て来る。
他方、わたしは出来ない、というとき、出来事はわたしから出て来ない。
しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。
わたしは出来る、というとき、出来事からわたしが出て来る。
他方、わたしは出来ない、というとき、出来事からわたしは出て来ない。
後ろの言い換えられた定式は、前のものと比較して明らかに意味が違っている。
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by novalis666
| 2005-10-25 00:30
| 行為の出来