美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(2) 可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」

[承前]

 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in-possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。




 しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。
 現代の様相論理学は不可能性(ありえない)と否定性(ない)の区別の上に成り立っている。それは「様相」の問題と「存在」の問題とを切り離すことと別ではない。
 したがって、「存在なき純粋様相」を考えることが出来るのである。このことを言い換えるならば、現代の様相論理学は「存在なき純粋様相」の形而上学を逆に要請しており、それなくしては成立しえなかったのだということができる。

 九鬼周造はそのことを逆手にとって偶然性を根本様相とする偶然性の形而上学を創造しようとした哲学者である。彼は『偶然性の問題』になかで実際に偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。それは九鬼の生き方の美学(趣味)から来る、「必然性の形而上学」に対する感性的な反発からである。九鬼の「偶然性の形而上学」は「偶然性の美学」に根差している。

 しかし、私はこの九鬼の様相性の解釈にも偶然論にも実は賛成できない。
 
 様相論においては、むしろ私は不可能性を根本様相として見る方が正しいと考えている。だが、それは『偶然性の問題』になかで九鬼に批判されている現代記号様相論理学の草分け的存在C・I・ルイスとは恐らく全く違った動機においてそう考えるのである。ルイスは不可能性を根本様相として考えている。私はルイスの見解を支持したい。

 ルイスの様相論では単なる否定(negation)と不可能性(impossibility)が区別されている。それはいわば無を存在論的否定性と様相論的否定性に区別することである。他の様相性を根本様相と考える立場では、この区別は出てこない。
 不可能性と否定性の区別は抹消され、不可能性は否定性に還元されてしまう。それは言い換えるなら、様相の次元のそれ自体としての自立性を、つまり様相論それ自体を存在論に還元してしまうことである。それは不可能性を無能力化=不能化(impotentialize)することである。不可能性を不能化することは、様相論を潜勢化することでも現勢化することでも完成させること(完全に実現すること)でもなくて、単にそれを去勢すること、骨抜きにしてしまうことでしかない。

 ルイスは、否定性には還元しえない不可能性、そしてまた、可能性の否定としての非可能性(あるいは否可能性)ではないような不可能性、すなわち、否定性にも可能性にも還元不可能な、それ自体としての不可能性、いわば〈不可能性自体〉ともいうべきものを発見している。

 しかし、ルイスが不可能性において本当に発見したのは様相性そのものである。不可能性とは様相性それ自体のことであり、単に四様相性(全体)の四分の一の様相(部分・構成要素・離接肢)であるだけではなくて、その四様相性全体のもつ有機的で相互否定的規定関係(構造・形式・枠組)なのである。そのことこそが様相論理学において重要なのであって、何が根本様相であるかは実はどうでもいいことなのである。◇だろうと□だろうと好きな記号を様相性を表す様相記号とし、それに可能性だろうと必然性だろうと偶然性だろうと不可能性だろうと四つ組の中から任意に選んだ名前をつけてやれば、お気に入りの様相論理学が出来上がるだけの話なのである。つまり、何とでも好きにすればいいのだ!

 例えば、様相性の記号を◆とし、否定を~、命題をp表す。◆には、可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれを代入してもよい。
 すると、
  ◆p 
 ~◆p 
  ◆~p
 ~◆~p

 の四つの様相式が出来上がり、それぞれが可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれかを意味する。この時点では、どれがどれでであるのかはまだ決定していない。事態は流動的である。
 しかし、ここでどれか一つを固定すれば、残りは自動的にその名が決まる。この固定化をもたらす固定性は、四様相性にとって外部的・超越的である。しかし、それは四様相性を決定的に創造する。決定不能のものが決定される。それは裏返せばその瞬間、どれか一つを特権的様相とする「神の創造」が行われるということだ。神が創造するというより、それは神が創造される瞬間なのである。

 そのとき、「排除と選別」が決定的に起こる。柄谷行人風に(すなわちクリプキ&マルクス風に)言うなら「暗闇の中での命懸けの跳躍」が起こるのである。このとき、四様相性は、その四人のうちの誰か一人に代表され、そいつに永遠に仕切られる羽目になる。

 しかし、問題は、それで他のようで有り得る可能性(すなわち偶然性)を実は排除できないということなのだ。そして、むしろここにこそ本当の意味での還元不可能な「偶然性の問題」が見出されねばならないのである。

 さて、マラルメは言っている――


  骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき。

ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』 秋山澄夫訳
 思潮社 1991年



* * *



 ところで、「◆p」「~◆p」「◆~p」「~◆~p」の四様相性は、「p」「~p」の双対で表される二項対立的で二値的な「存在/無」(或いは「真/偽」)の二様相性とは別個の水準にあるものと考えられる。二項対立的=二値的な二様相性は四様相性とは次元を異にしている。二様相性の二値論理空間からは様相性◆それ自体が実は追放(第三項排除)されてしまっている。その枠組のなかでは四様相性について考えることがそもそも全く不可能なのである。

 これを不可能にしているのは「否定」である。

 否定は、様相を排除し否定し追放している。いわば二つの次元を切断している。しかし、そのことによって否定は自分自身をも双面に切断している。単なる否定でしかない無と、否定の様相として何かそれとは違った顔をした無とに引き裂かれている。否定のもつ単に「無い」というのとは別の意味、それとは違う位相で違った意味をもってしまうということ、否定にはいつもその他立ないしは異定立(Heterothesis)の作用が伴ってしまうということ、そして、否定はその己れ自身であるところの他者を決して消し去ることが出来ないということ、それこそが問題なのだ。

 単に何が根本様相の「真」の名称であるかが問題なのではない。問題は、四様相性がそのような「真/偽」をもはや問えないような次元に成り立ってしまうということにある。「真/偽」とは言うまでもなく「存在/無」の二元論にパラレルなものであり、したがって既にそれ自体が二値的な、すなわち二項対立の呪縛に囚われた「否定」的発想でしかない。
 「真か偽か」或いは「存在か無か」をもはや問えないような次元に、そんなことには全く関わりなく四様相性の四位一体構造は成立している。このようなものが純粋に構造的に成り立ってしまっているということ、このような存在から全く独立した純粋様相空間としかいえないような次元に、実に不可思議に浮いている純粋に抽象的な四様相性の四位一体構造の成立と構成をわれわれが考えざるを得ないということこそが問題なのだ。

 そして、更に一層踏み込んで言うなら、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四様相性と存在・無の二様相性とは、その「様相」がまるで違っているということこそ、もっと重要な問題なのである。四様相性と二様相性は同一平面上に並記することはできない。これらは互いに異次元にあるのであって、九鬼がルイス、そしてルイスを批判して必然性を根本様相としたオスカー・ベッカーと同様の愚を犯して、四様相性と二様相性を単純加算して合計六様相にしてしまうことはできないのである(むしろ両者の位相差は交錯的なのだから乗法的にみて、八様相を考えるべきだろう。)それは否定性と不可能性がまるで違った意味をもった否定性だからである。

 九鬼はこのことの意味を真には理解していないように見える。単に皮相に表層的に瑣末的に何が根本様相であるかの名辞(呼称)にこだわり、誰が(どの様相概念が)一等賞(根本様相)であるかの莫迦気た論争を行っているに過ぎない。

 私がルイスを支持したいのは、単に二項対立的に偶然性を必然性の否定概念として考えている九鬼よりも、否定自体を単なる否定と不可能性の二相に切断することによって様相空間そのものを創造したルイスの方が、様相性の何たるかを恐らくよく理解していたのではないかと思われるからである。このような犀利さは、必然性などを持ち出して様相論を分かりやすく改良してしまったオスカー・ベッカーにも、偶然性などを持ち出して様相論を親しみやすくしてしまった九鬼にも見ることができない。彼らは単に様相を自明視ししてしまっているだけである。すなわち、そもそも様相とは何かという問いの場処を塞いでしまっているだけなのだ。

 何が根本様相であるかというような言い争いは実際には餓鬼の喧嘩と大して変わるものではない。九鬼はそのような意味ではそこで非常に愚かしいことをわめいているだけなのである。どうしても偶然性が根本様相でなければならないいわれはどこにもない。何だっていいのである。彼は「偶然性の形而上学」があったていいじゃないかという以上のことは何も言えない。勿論その通りなのだ。あったていい。しかし、それは同時に「可能性の形而上学」「不可能性の形而上学」「必然性の形而上学」をも同時に肯定することでなければおかしい。

 しかし、九鬼は実はそれほどひどい莫迦ではないのであって、実のところは、ことによると、そのことはよくよく承知した上で敢えて「偶然性の問題」を主張したのではないかとも思われる節がある。それは九鬼の目には西欧形而上学がもっぱら「必然性の形而上学」によって呪縛された思考であると映ったからである。
 だが、この言い方は本当は正確ではない。彼が反発していたのは「必然性」に対してではない。むしろ「存在」や「自己同一性」という「価値」の自明視に対してである。
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by novalis666 | 2005-03-30 22:10 | 不可能性の問題