美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(3) 自同律の考究

[承前]

 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。



 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。

 自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
 自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。

 すなわち同一性というのは、〈自己は実体として存在する〉(平たくいえば〈私は実体である〉、また別の仕方でいえば〈自己は実体を存在する〉)という観念的で内的な経験なのである。
 〈自己〉の観念は同一性の主語にして主体である。同一性から直接的に推論される同一者、または自同律から直接的に推論される自同者の観念を捉えなおしたときに、それは〈自己〉と呼ばれるのだといってよい。

 しかし、このような〈自己〉の観念は、例えば〈この私〉というような具体的実存的な事実存在に一次的には起源していない。
 〈自己〉(「私」一般)と〈この私〉は異なる。この差異は極めて気づきにくいが、確かにそれはある。それは例えば柄谷行人が『探究II』において問題にしている〈単独性〉或いは〈この性〉の問題に触れている。
私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。

柄谷行人『探究II』「第一章 単独性と特殊性」
講談社学術文庫p19


 ところで、〈この私〉は偶然的存在である。「真理」と明証的に表裏一体となっている〈自己〉(同一者)と〈この私〉が異なるとすれば、偶然的存在である〈この私〉の真理性はどうなってしまうのか?

 実は、九鬼が「必然性」を批判するのは、それが彼にとって「同一性」及び「一者」(to hen )の様相を意味したからである。これに対して彼が「偶然性」の様相を重視するのは、彼がそこにおいて、同一性には還元不可能な、一者と他者の二元的邂逅を見出してしていたからに他ならない。
偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。

九鬼周造『偶然性の問題』二・一五 『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店p120


 しかし、私は「必然性」を同一性の様相であるとは考えない。むしろそのように考えることこそ、不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。アリストテレスの基本的な表現法では「必然性」は〈他のようではありえない〉という仕方で実は〈他〉を含んでいる。「必然性」は同一性というよりはむしろ「非他性」である。
 つまり、まさに必然性こそが「一者と他者の二元的な邂逅の様相」なのである。しかもそれは決して同一性に内面化することのできないような他者との邂逅(=分裂)の様相なのである。同一性は必然性に突き放されることによって生じる。しかし、それは同一性が必然的であるということではない。

 むしろ逆である。同一性は確かにそれによって例えば自同律というような仕方で己れを必然化し第一原理化するだろう。そこからまた「存在」の観念が起源しさえするだろう。ヌースがアナンケを説き伏せるというあのいやらしい詐術がそこで行われてしまうのだ。しかし、同一性は決して必然性(非他性、他の不可能性という意味においての)を内面化などなしえていない。

 九鬼は偶然性を遭遇性であると同時に偶数性であるとしている。
偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。

九鬼周造『偶然性の問題』二・一五『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店 p120


 そして、その偶数性・遭遇性の意味は、「存在と無」または「存在と非在」の二者の根源的二元論であり、この二者の遭遇のことである。そもそも『偶然性の問題』の開巻冒頭で九鬼は次のように宣言している。

 偶然性とは必然性の否定である、必然性とは必ず然か有ることを意味する。すなわち、存在が何等かの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことの出来る存在である。換言すれば偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無の接触相に介在する極限的存在である。存在が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。然るに、存在を越えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが形而上学の核心的意味である。

九鬼周造『偶然性の問題』序説『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店 p9)



 しかし、この九鬼の立場を徹底すれば、必然性においてこそ存在と非在の双方に還元不可能な分裂の様相を観測しなければおかしい。必然性こそが九鬼の言うような意味での真に根本的な形而上学的偶然性なのだ。必然性は自己のうちに根拠などもっていない。自己の概念は存在と同様に自同律に根付いている。われわれの思考の習性は自同律を安易に必然的な思考の第一原理であると考えてしまう。だが、そこにはそのように考えさせる外的な強制力が働いている。この強制力が自同律を必然化し、思考を自己や存在から脱出不可能な様態に呪縛している。

 必然性は他者の不可能性としての非他性である。非他性は同一性と同じではない。また、同一性に根拠を与えるものでもありえない。私は同一性と必然性を切断する。それは「存在なき純粋様相」の概念を凝視し考察しようとすることと別ではない。

 わたしの考えでは、自同律は必然的ではなく、偶然的なものであって、思考の真の第一原理であるとはいえないものである。むしろ必然的なのは矛盾律の方である。生成順序として、まず矛盾律があり、排中律がある。自同律はその後にやっとこの二つに導かれて生成するものでしかない。
 同様に「自己」や「存在」の観念もこの自同律の思想から生み出された効果でしかありえないので、何ら必然的なものであるとはいえない。

 われわれを自同律や自己や存在から抜け出せなくしている黒幕は実は「可能性」である。ベルグソンは目は物を見るための器官であると同時に見ることの障害でもあるということを言っているが、「可能性」という様相はそれとちょうど同じ機能を果たしている。

 われわれは「可能性の内」(in possibility)に思考の動く幅を前もって制限的に規定され、いわば前置=前提(preposition)され、そこに捕え込まれてしまっている。そこでこの「可能性の内」(in possibility)――むしろ「内可能性」(in-possibility)は可能性からの脱出不可能性という意味において、駄洒落でも何でもなく、一種の逆説的な意味における不可能性(impossibility)として反転的に機能してしまう。
  しかし、この意味における可能性からの脱出不可能性は、可能性という様相の奇妙な否定的裏面であって、私が「不可能性そのもの」すなわち「不可能性自体」として考察しようとしている、可能性によって否定されることによって「不可能性」と名づけられてしまっている、恐らく本来はむしろ全く無名の様相とは別である。
 また、この可能性からの脱出不可能性は必然的な様相を確かに呈するものではあるが、必然性そのものともやはり別のものである。
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by novalis666 | 2005-03-30 22:16 | 不可能性の問題