美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(4) 実体と様相の美学

[承前]

 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。

 だが論述においては彼は不可能性から出発している。





 不可能性の否定によって可能性が生まれる。可能性は生まれ落ちた一点から次第に成長して行く。そうして可能性増大の極限は必然性と一致する。次に必然性の否定が偶然性を産む。誕生の一点を起始として偶然性は次第に増加する。そうして偶然性増大の極限は不可能性と一致する。ここに可能性と偶然性の対立的関係、および偶然性と不可能性との近接関係が明かにされる。可能性が増大するに従って偶然性は減少し、偶然性が増大するに従って可能性は減少する。可能性増大の極は偶然性減少の極と一致する。それがすなわち必然性である。また偶然性増大の極は可能性減少の極と一致する。それが不可能性である。(ibid.)

 しかし、この循環的生成論とは異なる様相の生成論を私は考えている。

 九鬼の陰陽循環的様相変換論は四様相が季節の循環のようにグルグル入れ替わる対称的な回転理論である。
 そして、その運動の原動力となるのは「否定」である。

 だが、私は寧ろ元気の陰陽二気への根源的分裂に発する起点のある非対称的な様相の段階生成論を考えたい。
 九鬼の四様相循環論は要するに四様相のすべてが初めから与えられてしまっていることを前提している。それが「否定」に媒介される円環運動になってしまっているのは、分化しきった太極という一者の完成した「存在」の内部に四様相が取り込まれて、その内的自己循環に馴致化され回路付けられてしまっているからである。

 通常、論理学は真か偽かの二値論理である。これは存在か無か、肯定か否定かと言い換えても同じことである。
 しかし様相論理はある命題が真か偽か、存在するかしないかを問うのではなく、それとは別問題にそれがどのような様相においてあるか、必然的か可能的か偶然的か不可能的かを問う四値論理である。

 私はこの別問題であることをより極端に徹底させ、存在と様相を切り離す。そこで存在なき様相を純粋に考察しようとする場合、九鬼のように「存在」と「否定」という二値論理的な説明原理を持ち込んで、それに基づいて四様相の概念を解明することは許されない。

 それは陰と陽であっても同じである。存在と無、肯定と否定、陽と陰、1と0は、いずれ変わらぬ二値論理でしかありえない。そもそもコンピュータの原案者ライプニッツがその基本観念を発想したのは中国の易の思想からであった。陰陽二気の易の哲学こそ世界最古のコンピュータ思想(二値的記号論理学)なのである。

 九鬼の太極図形における陰(可能性)陽(偶然性)の二元の巴は、可能性が〈無〉、偶然性が〈存在〉(存在者)に当たるといえる。

 偶然性は九鬼によれば「無の可能性」=「存在の偶然性」であり、可能性は「存在の可能性」=「無の偶然性」である。
 そして、この両者は一方が他方を持ちつ凭れつに支え合う相関関係にあるのだ。
 しかし、これに原分割を与えているのは老陽-老陰にあたる陰陽の巴の境界面(不可能性-必然性)の亀裂である。この分裂線はそれ自体、存在と無の二値論理に還元不能な様相としての様相の自立性としてある。

 私が根本様相としての不可能性と呼ぶのはこの根源的な分裂線のことである。九鬼はそれを「原始偶然」と呼ぶが、私はそれを「根源的不可能性の美」と呼ぶのである。

 だが、忘れてはいけないのは、九鬼の必然性批判は実際には戦略的な擬態であるに過ぎないのだということである。
 彼が「偶然性」として言わんとしていたのは「存在」にも「無」にも還元できない形而上の「美」のことである。
 その点において私はこの素晴らしい哲学者・九鬼周造に心から共感する。
 形而上学は「様相を呈する学」としての美学でなければならない。それを妨害する存在論の「であるはずだ」や倫理学の「ねばならない」に対して、それとは違った美しい必然性を、即ち運命としての必然性をつきつけてやりたかっただけなのである。

 これは九鬼が批判しているオスカー・ベッカーについても言える。彼はハイデガーの高弟の一人だが、花の「美」を侮蔑するヘーゲルやハイデガーの「無」や「存在論的差異」に対して、美しい「実体」の観念を守らねばならないという立場からプラトン的イデアにおける「パラ存在論的無差異」の思想を展開している。
 この必然性の美学者は「存在(実存)」という「価値」に対して「実体」という「価値」を復活させることこそが必要なのだと説いている。

 プラトン的イデアは存在論的差異に対立するものである。いわゆる「現実性」に関するイデアの問題点は、その概念構成の全体からして最深部で存在の「鋭さ」、すなわち事実的なものの固さを、計算に入れることができないところにある。他の面では、この「現実性」から、またその最奥の根拠である「存在」からしては、それは捕らえられず、また反駁もできない。いかに強力ではあっても、存在がありのままの実体を害することは決してない。無は存在に対して何もなしえないからであり、その永遠の処女性には触れえない。それは現れることで喜びを与え、またその現れの退潮は、「地上の美の喪失」ではあってもそれ自体には影響しない。それは、永遠に回帰可能な可能性に留まる。その中には、存在の灰白色の堅苦しさとは対照的に、実体の与える慰めがある。かくして我々は、これと密接に関係する問いかけをもって結びたい。人間は、「存在の牧人」であるより前に、実体の番人であるのではなかろうか。
(オスカー・ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異」1963『ピュタゴラスの現代性』中村清訳 工作舎 一九九二年)

 ベッカーの言わんとするところは非常に分かりやすい。「実体」の概念は存在論的なものであるというよりも寧ろ美学的なものなのである。
 だが、それは何もプラトン的イデアにおいてそうだというよりも、それを批判したアリストテレスにおいてそうだったのではないかと私は考える。

 アリストテレスにとって「実体」は「個物」において見い出されたそのありのままの美しさであったのではないか。彼はその「美」を「神」と呼んでいた。私はアリストテレスを可能性の形而上学者として批判するつもりだが、しかし、それはアリストテレスが「実体=個物」に見いだした「美しい神」を再発見したいからである。

 近年、ハイデガー批判というと何故か専らレヴィナスの倫理主義ばかりが取沙汰されやすい。
 しかし、私の考えではレヴィナス流の倫理主義は日本人には受け易いからこそ却って有害なものに転化してしまいかねないという危惧をもっている。

 「存在」という価値が権力であるといって「他者」という価値に乗り換えても何も解決しない。それどころか日本にはレヴィナスの「他者」以前に先在する別の「他者」がいるのである。この別の「他者」を退治しない限り、レヴィナスの「他者」は空念仏にされてしまうだけだ。

 むしろ我々は九鬼やベッカーのような「様相」の美学者(彼らのハイデガー批判の方が実は私たちのためになる)を評価するべきであり、「実体」の思想を復活させる必要がある。「実体」のない「他者」の話などお断りである。

 この「実体」のない「他者」は「別人」である。

 私はレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」を〈顔〉というよりも「真面目」・「表情」・「様相」という語で考え直したい。
 それは倫理学的な概念というよりは美学的な概念である。

 このように言い直すのは「他者」と「別人」を区別するために必要な措置である。「別人」は「不面目」で「無表情」で「無様」である。それは冷笑的で厭味なものである。

 日本の「別人」においては、レヴィナスの言う〈イリヤ〉はそのような〈顔〉をもち、まさに「他者」において不断に露出しているのだ。
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by novalis666 | 2005-03-30 22:26 | 不可能性の問題