美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(5) 埴谷雄高、レヴィナスと九鬼周造の間に

[承前]

 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。





 個性も同一性も無化されるような極限的な孤絶性のなかでは〈他のようではありえない〉という同一性すらも突き破った酷似性、もはや同じではありえない端的に単独の異貌のかたちがそれ自体の不可能性の核心へと凍結してしまっている様相しか描き出せないのだ。

 どのような文体や表現ジャンルを選ぼうとまたどんな文化や伝統や政治的立場や思想に所属しようとこの宿命的な酷似性だけは逃れがたく覆いようもなく暴き出てしまう。それは聖痕のようなものだが、むしろ被爆して焼き尽くされるということに似ている。どれほど似ても似つかない人も大地にやきついた黒いシルエットに還元されてしまうと全く見分けがつかなくなり、彼らが以前に誰であったのかは全く問題にならない。
 ただ彼らがどこにいたのかだけが問題となる。神の前には万人平等であるというが、それは無差別平等ということでありまた無差別殺人ということでもあるのだ。

 この無差別性は同一性よりも深い必然性を掻き消せない黒い影として人の顔の奥底に刻みつける。そのことにこそわたしはいつも戦慄を覚える。フランスの文学的哲学者エマニュエル・レヴィナスと日本の哲学的文学者埴谷雄高のそれぞれ全く独立別個に描き出した世界の間に通底するそのどす黒い影の〈他のようではありえない〉迫真の絶対的酷似性をみるときにいつも感じるのはそういった種類の戦慄なのだ。

 このように強烈な酷似性は、他のようにありえてもおかしくはない筈のブランショやバタイユやサルトルやベケットを引き合いに出してその中に加わらせることのできないような種類のものだ。彼らはこの緊密な〈他のようではありえない〉からどうしても締め出されてしまう。

 一番奇妙なのはレヴィナスの古くからの親友でもあり、また、思想的にも人間的にも政治的にも埴谷雄高とまるで瓜二つのように似通ったブランショが締め出されてしまうことである。

 レヴィナスとブランショ、また埴谷雄高とブランショは瓜二つの一卵性双生児のように近似しているが、レヴィナスと埴谷雄高は近似さえしていない。むしろ隔絶している。
 ところがこの隔絶によって全くの赤の他人でありながら、逆にそれゆえにこそ〈他のようではありえない〉がその隔絶の間に雷鳴のように轟く。

 二人は遺伝子生物学的な(あるいは分裂症的=分裂生成的な)一卵性双生児のように分身なのではなくて、心霊現象的な(あるいは離人症的=非人称化的な)二重身(ドッペルゲンガー)として運命的に分身なのだ。

 むしろブランショとそのような意味で酷似しているのは、意外なようだがドゥルーズなのである。それは血(気質)の色が似ているというような類似だ。ブランショとドゥルーズの血は明るく赤い。それは燃えるような五月革命の熱狂の色だ。彼らはナチュラルボーン・アナーキストである。
 これに対して埴谷とレヴィナスの血は暗く黒く凍えている。それは冷酷な闇の独房に遺棄監禁された孤児の瞳の色だ。彼らはむしろまさにコインロッカー・ベイビーズといった方がいい。そして村上龍の『コインロッカーベイビーズ』のハシとキクがそれぞれ別れて対照的な道を歩み出すように、この二人も対照的な方向に踏み出していったのである。

 ハシとキクは同一の運命を分けもつ双子だった。しかし勿論全く血の繋がりなどはないし性格も体格も全く違う。全く赤の他人である彼らが双子になったのは、偶然二人とも同じようにコインロッカーに遺棄されたという共通の原体験をもっていたからである。

 〈他のようではありえない〉はそのようにして生まれる。
 つまり元々は全く他なる者であったものが、全く他なる者であるがままに〈他のようではありえなく〉なるのである。それはもっと卑近な言い方に直せば〈他人事ではすまされない〉関係性といっていいだろう。

 それはマルクスの価値形態論を分析した柄谷行人が「可能性の中心」と呼んでいるものに他ならない。
 しかし、わたしはそれを「可能性の中心」とは呼ばないのである。
 それはわたしにとって「不可能性の核心」としか呼びようのないものである。

 他ならないからといってそれは同じであるということではない。
 可能性にとっては、経済学的に、他ならぬものは同じものでありうる。
 しかし不可能性にとっては、政治学的に、他ならぬものと同じものはどこまでも〈同じようではありえない〉のである。

 可能性にとって、非他性は同一性の外輪にあってそれを外部から呪縛する。しかし不可能性にとっては非他性は同一性の内側をえぐり取り掻き毟って二度とふたたび元の同一性の中心には戻れない不可能性の核心に呪縛する。

 〈他のようではありえない〉関係性は他者のみならず自己とも〈同じようではありえなく〉するのである。

 だが、では一体何がこの〈同じようではありえない〉レヴィナスと埴谷雄高を〈他のようではありえない〉関係性に呪縛的に置き換え(交換)させてしまっているのか。

 カントとドストエフスキーと強制収容所の凄絶な原体験の共通性――確かにそれは伝記的な事実によっても彼ら自身の書いたものを読んでもあからさまに分かることであって、そこからこの酷烈なまでの類似性、殆ど同一といってよい程に見分けのつかない表現の形成の要因を分析することができないわけではない。またそれは是非必要なことだし大いになされねばならない。

 けれども、それはこの〈すべての牛を黒くする夜〉(ヘーゲルがシェリングの「同一性」の哲学を嘲笑した言葉)よりもどす黒過ぎる魔王の通り過ぎた過越しの跡の心に灼きつく余りにも生々しすぎる印象の由来のすべてを解明することにはならない。そんなものはただの「弁証法」でしかないのだ。

 日本の思想史的文脈から行くと、埴谷雄高は九鬼周造の後に位置付けることができる。
 埴谷の不可能性の文学は、既に九鬼周造が『文学概論』のなかで予言的に文学のあるべき理想の形として述べているものを忠実に実現しようとしたものである。

 埴谷がレヴィナスと酷似しながら決定的に異なった方向に踏み出してゆくのは、彼が九鬼と同じように根本的に「様相」の美学者だからである。

 九鬼は「偶然性の形而上学」を創造した。埴谷は更に突き進んで「不可能性の形而上学」の創造に赴く。それは九鬼のやり残した仕事を引き継ぐことだった。埴谷は九鬼について特に何も語っていないが、むしろそこにこそ埴谷のよく言う「精神のリレー」が見いだされねばならない。

 九鬼は「様相」の問題と思想家の「態度」の問題を絡めて次のように書いている。

 理論に実践に、常に必然性を把持する者は無を自覚することが少ないであろう。可能性の追求にのみ心を砕く者は単に「欠如」として概念的に無を知る場合が多いであろう。それに反して偶然性を目撃する官能を有つ者は無を原的に直観するのである。偶然に伴う驚異は、無を有の背景とし無より有への推移につき、有より無への推移につき、その理由の問われるとき、問そのものを動かす情緒である。偶然は無の可能性を意味する。不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説を敢てするのも偶然性である。

(九鬼周造『偶然性の問題』第三章 離接的偶然 第一四節 有と無)


 
 とすると、「偶然性の問題」の核心にあるのはむしろ「不可能性の問題」である。

 しかし、九鬼は不可能性の思想家の態度については沈黙し、あくまで偶然性の思想家に留まろうとする。或る意味ではそれが九鬼の限界でありしかしまたその美徳である。

 埴谷はまさに九鬼が書きえなかったその不可能性の思想家の態度を例えば次のように言い切っている。

 不可能性の作家――。これは、不死の死とか、思惟の思惟、とかいつた種類の想念にも似たところの一種の暗示語であるだろう。私達は暗黒の夢を見つづけることができないごとく、事物に充たされていないところの空虚な内容を想像しつづけることもできない。そうとすれば、これまでも嘗てなく、また、これからも決してないだろうところの客観的な対応物をもたぬ或る種の事物を扱う不可能性の作家の想像力とは、いかなるものであろうか。

(「不可能性の作家」「文学界」昭和三五年一〇月号掲載)



 文学は長いあいだ存在に対して真すぐ向いてきたが、怖しいことには、いまやついに存在が文学をとらえてしまうのつぴきならぬ世紀にはいつてきたと思われる。ブレイクやポオやドストエフスキイがふとかいま見ただけで前のめりになるほどの重荷を負わなければならなくなつたところの《のつぺらぼう》のかたちが、この世紀のあいだにどのような凄まじい徹底性をもつた広角度のヴィジョンのなかにどのような暗い巨大な翳となつてうつるのか、カフカやサルトルの数歩ふみこんだ努力にもかかわらず、いまだ予想しがたい。けれども、ただつぎのことだけは明らかである。そこには、まつたく新しい飛躍的な語法が必要であること。そしてまた、或る種の憤懣を含んだ絶望と自身の背後に沈むようにもんどりうつて闇のなかへ逆さまに倒れこむ勇気が必要であることも。

(「存在と非在とのつぺらぼう」「思想」昭和三三年七月号掲載)



 埴谷のいう〈のっぺらぼう〉とはレヴィナスの〈非人称のイリヤ〉と厳密に一致するものである。そして九鬼が『偶然性の問題』のなかで敢えて口にしなかった恐るべき悪魔の名前である。

 九鬼はいわば虚無の表層を擦めて存在の側に無の小さな断片を奪い去るだけであるが、埴谷はその恐るべき虚無の核心に向かって跳びこんでゆき無の可能性(偶然性)には決してなりえない不可能者を発見してしまったのだといえる。
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by novalis666 | 2005-03-31 00:10 | 不可能性の問題