美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(6)不可能存在の不可避性――イポスターズ論再考

[承前]

 九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。

 偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。




 この花は現実存在の波立つ水面にたまゆらに浮かび出た不可能存在の断片的な映像であるといってよい。
 そこにあるのは「はかなさ」の情緒である。果敢さと空しさのあわいを微妙に揺れながら小さい命の美しさをきらめかせている。

 人の命は有無の境にある。それ故にそれはきれいで美しいのだ。
 有無の境に咲くこの〈無〉は、無の影であると同時に有の影でもある。無では無い無としてこの〈無〉はある――それは〈無〉というよりもむしろ〈美〉である。有無の境に〈美〉はきらめいて流れるのだ。

 偶然性は不可能性を中断して「無の可能性」に様相変換する〈間〉の〈無〉である。
 不可能存在が不可能的現実存在と現実的不可能存在に分割されるとき、生きられない無は生きられる無に変容するのだといえなくはない。

 「可能性が無い」という不可能性は厳密な無であって、それは厳しく具体的存在者の存在を禁ずる。それは「無いことの必然性」だからである。

 しかし「無いこともありうる」という偶然性(無の可能性)はその反対の「存在することもありうる」「存在できる」という可能性(有の可能性)をも許容する。無いことができるものは在ることもできるようになるのである。

 無が可能であれば存在もまた可能である。逆に無が不可能であるとすれば、存在も不可能になってしまう。

 確かに無の不可能性は一見論理的には存在の必然性である。そして、存在が必然的であるなら存在は可能である。

 だが、この存在可能性は抽象的な必然的存在者(パルメニデスの〈一者〉)についてだけいえるものであって、具体的な偶然的存在者についてはいうことができない。
 このような必然的存在者は、偶然的存在者の存在に道を譲り渡さず、その存在の余地をすっかり塞いでしまう。つまり存在の偶然性は存在の必然性の矛盾概念だから偶然者の存在を禁止してしまうのだ。

 〈のっぺらぼう〉〈非人称のイリヤ〉というのは、そのようなパルメニデスの〈一者〉の恐るべき異貌に対して埴谷及びレヴィナスがそれぞれにつけた名前である。しかしそれの存在論的意味付けにおいては或る点においてレヴィナスよりも埴谷の方が優れた洞察力を示している。

 レヴィナスはむしろ『偶然性の問題』の九鬼に近い。
 彼は偶然性の方へと引き返す道を選んでいる。九鬼の「不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」というのは、とりもなおさずレヴィナスが『実存から実存者へ』において選び取った〈非人称のイリヤ〉からの脱出の方位、イポスターズ(実詞化/様相変換)と同じである。それによってレヴィナスは「実存者」となるが、これは「偶然者」のことである。

 レヴィナスはちょうど九鬼と言い方は逆になるが、「無を不可能性の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」によって「無の可能性」(偶然性)を生み出す。不可能性を中断して無の可能性に変換することにより完全に偶然的に誕生するのが実存者である自我なのである。
 そうすることによってレヴィナスは不可能的に現実存在することを引き受ける。しかしそれは自同律の悪=不快をも己れ自身の実存の核に引き受けることと引き換えなのである。そうすることによってこの実存者は「実体」となることを選ぶ。

 埴谷はレヴィナスと自同律の不快の思想を共有しながら方向性が逆である。

 「実体」となることを選んだレヴィナスのイポスターズ論においては自同律の不快は到達点にある。
 ところが、埴谷はまさにレヴィナスが涙を呑んで受け容れたその同じ自同律の不快から出発して「虚体」の創造を目指す。

 彼はレヴィナスが或る意味においては敗れ去った〈のっぺらぼう〉に対してなおも不屈の闘争を挑む。この〈のっぺらぼう〉を転覆することこそ埴谷雄高のいう〈存在の革命〉の大胆不敵な思考実験となるのである。

 埴谷がレヴィナスのいう〈非人称のイリヤ〉を「存在の非人称性」とは言わず、「存在」とも「非在」とも違う「のっぺらぼう」だと言い切ることは事の正鵠を衝いている。レヴィナスの言い方の方が不明瞭なのである。

 「実存者なき実存」と「存在者なき存在」は同じ概念であるといえないが、レヴィナスはわざとそのあたりのことをぼかして語っている。それが彼の曖昧な黙示録的語調の問題なのだ。

 埴谷はより明瞭にこの〈イリヤ〉の必然性を規定することに成功している。〈イリヤののっぺらぼう〉は存在でもなければ非在でもない存在論的深淵そのものの現出なのである。

 アリストテレスの古典論理学によれば、不可能性と必然性は反対対当の関係にある。反対対当というのはどちらか一方が真であるなら他方が偽であるといえるが、その逆が成り立たない不可逆な関係にあるもののことをいう。つまりどちらか一方が偽であることが立証されたとしても他方を真とも偽とも確定できないもののことをいう。

 そこで「真」を「存在」、「偽」を「無」と言い換えると既に述べたことをより正確に言い表すことができる。
 必然性が真つまり存在であるなら、不可能性は偽つまり無であるということができるので、存在の必然性は確かに、無の不可能性であるといえる。
 しかし、不可能性が偽つまり無であるからといって、必然性が真つまり存在であるとはいえない。
 無の不可能性から存在の必然性は論理学的にも導き出せないことになっている。

 無の不可能性からいうことができるのは、必然性自体の真偽不定、有無の決定不能であり、必然性の様相において顕現するのは、存在なのか無なのか得体の知れない不定性そのものとなるのである。

 無が不可能であるなら、必然的に存在は決定不能という意味で不可能になってしまうのである。

 無の不可能性は正体不明の必然性である。
 あるのかないのかさっぱり分からない存在とも非在ともつかぬ〈のっぺらぼう〉の無気味なお化けが出てくる羽目になるのである。埴谷雄高が正確だというのは、まさにこの点においてなのだ。

 これに対し、九鬼は『文学概論』において、無は無化して存在を生成するから絶対無の不可能性は存在の必然性に転化するのだと言っている。これはヘーゲルもベルクソンも言っていた理屈である。しかし、絶対無が純粋存在と同一であるという単純なヘーゲル式論法が作り出すウロボロスの円環には、この怪奇な無貌の存在論的妖怪は収まりがつかない。

 「無は無い」と「存在は存在する」は同一の自同律ではないのだ。

 「無は無い」は「無は無である」と同じではない。また、「無は無い」は「ものが無い」というのと同じ「無い」ではない。
 無は非存在であるのでも非存在するのでもなくて、不可能であるのだ。

 「無は無い」というのは単に「無い」(否定性)のではなくて、不可能であるが故に無いのである。不可能であるが故に存在否定されて非存在させられて無いのである。存在では無いから無いのではない。非存在であるから無いのではない。存在と無の差異の故に無いのではない。存在では無いもの(非存在)は無いから無いのである。

 「可能性の無」である不可能性が「無の可能性」である偶然性に様相変換することを通して「有の可能性」である可能性が生まれる。
 この「有の可能性」は「有の必然性」である必然性から直接、論理的に出てくる「有」の可能性とは違っている。
 偶然性という無では無い無から、無くは無いが無くてもよいものとして出てくる「他の偶然性」としてのこの間接的な「有の可能性」はむしろ「非無の可能性」、無が無では無くなる可能性であるに過ぎない。つまり「有の可能性」であるにはあるが「有りそうもない可能性」なのである。

 これに対して「有の必然性」から直接的に論証される「有の可能性」はA=Aという存在の自同律に従っていて、その内に無や否定をはらみもたぬ純粋な「有」である。
 存在の自同律のA=Aは、「必然者は可能者である」(「必然者=可能者」または「必然者→可能者」)という意味である。必然者だけが可能であるということである。すると偶然者は存在不可能であるが故に存在しないという結論になる。

 偶然者の存在可能性は、存在の自同律からではなく不可能性から偶然性への様相変換によってしか確かに考え出せない。
 レヴィナスのイポスターズ論はこの点を正確に押さえている。
 「可能性の無」が「無の可能性」に変わることによって偶然性が誕生する。

 ところで偶然性は「無の可能性」であると同時に「他の可能性」でもある。つまり「他」を可能ならしめる可能性である。
 この「他」は可能性そのものである。

 ここで注意しなければならないのは、偶然性は不可能性から様相変換された時点においてはまだそれ自体においては可能性となっていないということである。
 可能性は偶然性によって可能性へと実現されることを通してやっと現れるものでしかない。
 そして可能性が確立することによって偶然性はやっとそれ自体における可能性へと実現される。偶然性は「無の可能性」から「他の可能性」となり、可能性を「他の偶然性」として実現することによって、自らを「他で無い可能性」とするのだといえる。

 存在の自同律は「存在は存在する」という必然者の確立によって全てを塞いでしまう。それを裏返すと不可能者を定義する無の自同律「無は無い」が出てくる。

 「無は無い」とは「無が無くなる」ということである。
 するとこの不可能者、ありえないものは何か。それは無すら無くす無である。
 それは存在でもありえないが無でもありえない。
 無すら無くす無は、無では無い無である。
 このとき、「無は無い」は「無では無い」を無の無化を通して無から創造的に召喚している。

 無が無くなったとき、無化する無は、自らをもはや無化することのできない無として出現する。
 無が無くなったときにこそ、無をもう二度と決定的に無くすことができないのである。
 これが無のパラドクスの最も恐るべき様相である。

 無が消滅したとき、消滅それ自体が現れる。それはもはや無であることすらできない無である。これこそが〈ありえない〉である。存在論の不可能性の核心である。

 古来から我々の思考を律する根源的な論理律として自同律・矛盾律・排中律の三つが知られていることは既に述べた。すなわち「AはAである」「Aは非Aではない」「Aであると同時に非Aであるものは存在しない」。このうち、何かの存在に触れているのは排中律だけである。
 無論、排中律は否定的にのみそれに言及している。しかしそれは「Aでもなく非Aでもないものが存在する」をその無気味な谺としてその背後に呼び出してしまうのである。
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by novalis666 | 2005-03-31 00:16 | 不可能性の問題