美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(7)負在としての非在と非無としての存在

[承前]

 論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。



 自同律と共にわれわれにとって自明で疑い得ない明証的な観念は存在である。われわれは存在の幅から脱出することができない。存在は最も単純でやはりそれ以前に溯ることのできない最初の、完全な、究極の、原理的で根源的な観念であると考えられている。必ず何かが存在しなければならない。故に〈在る〉ということは思考にとって最も必然的であると信じられている。哲学は伝統的に存在を疑わない。存在は「存在する」という以外にそれを定義し得ないような最も根源的な事態或いは出来事をいっているとわれわれは考えてしまう。それはぎりぎりに考え詰められた揚げ句にわれわれが到達する最もエレメンタルで最も基礎的な真の意味での万物のアルケーであると考えられている。

 このように考えるとき、われわれは最古の哲学者パルメニデスの「存在は存在する」という存在の自同律の命題に捕縛されてしまう。存在の自同律、存在の絶対的同一性は、その完璧な円環の閉域の外に逸脱し、それが根本的ではないといって論破することができぬものであると思い込まれている。自己同一性と存在は思考にとって自明の前提であり、かつまた共に思考の動く幅を完全に規定し、かつまた思考が必ずそこにおのれのアルケーを置き据える決定的に原初的なはじめのはじめであると思いこまれている。だがそれは本当にそうなのだろうか。

 私は決してそうは思わない。自同律や存在は思考にとって最初に必然的な観念でもそのアルケーでもないし、根本的な出来事でもありえない。

 むしろ万物のアルケーは虚無あるいは否定である。

 存在は決定的に無に、否定に先立たれている。無という否定性は存在に優越し、先行している。そして万物のアルケーであり思考のアルケーであると言うに相応しい最も完璧で疑問の余地のない必然的な観念は、全く何も存在しないこと、完全に絶無であるような徹底的な否定の無である。純粋な無の方こそ存在よりも疑問の余地のない、最も明晰判明な完璧な有無を言わせぬ必然的な観念である。或る意味では無こそが在るという不可能で逆説的な事態こそが根本的な、「存在」に先立ってどうしても必然的に起こる出来事なのである。無こそ思考にとっても存在にとっても無くてはならないものなのだ。

 もし、はじまりのはじまりに無がなかったとしたら、存在はありえなかっただろう。存在するということは無からしか起こり得ないのである。否定は、存在がまだ無いところ、存在するということがまだ成立していないところで既に働いている。実はまさにそれこそが窮極的な恐るべき真実在なのだ。

 存在は無よりも遥かに弱い、曖昧で貧弱な、愚鈍な概念でしかない。同一性もまた然りである。それらは無を、否定を、定義することができない。存在することは、無いということを己れから生み出すことは出来ない。「無からは何者も生じない」として存在を根幹に置く伝統的な西欧形而上学は無についての省察が甘く不徹底なのである。逆に「存在からは無は生じない」ということこそ熟考されるべきことであった。「在る」ということはどこまでいっても「在る」だけであって、「無い」を作り出すことはできない。同様に同一性もまたどこまでいっても「同じ」であるだけであって、差異を、違いを、他者を、作り出すことができない。

 ところが二値的な形式論理学を見れば分かるように、二重否定「無いので無い」は肯定「在る」を形成することができるのに対し、肯定はそれを何重にしても否定を、無を生み出すことができない。

 「xは存在する」とは「xは無くは無い」ということなのである。
 xは存在者であるに先立って、非存在者(非者)として「xは無い」という仕方で存在に先立つ無を体験しているといえるのである。xは原初的に非存在として否定定立されている。それが存在者として定立されるためには、非存在性が更に否定されねばならない。即ち反定立こそが定立に先行している。或いは定立はそもそもの最初から否定の媒介を経て成立しているのだと言ってもよい。それは全くヘーゲル的であるともいえるし、また、そうでないともいえる。

 xの定立・xの肯定・xの存在・xの自己同一性は、xの二重否定である。xの真の意味での本来的定立、或いはxの本体・xのそのもの自体の定立、xの真実在は、xの非存在であり、xの無化、xの死滅、xの否定であるといえる。

 存在・同一性とは否定の否定、二重否定であり、原初的止揚である。それは純粋な肯定でありえない。xの肯定が肯定されているのではなく、むしろそれは否定の二乗、xが二度にも亙って否定されていることに他ならないのである。

 存在すること、それはそれをとりまく広大な無の否定のなかで、否定が否定に重なり合い、無が或る一点で無自身に触れ合い、無が無化すること、「無いものは無い」という無の否定的自己触発から「存在する」という出来事が逆説的に錬金術的に起こることだと考えることができるだろう。

 或る意味では、存在は虚無の襞であるといってよいのである。

 存在は否定である。それは寧ろ非無、否無というべき否定性、二番目の否定、無の二番煎じであるに過ぎない。

 自同律は根源的ではない。それは実際は二重否定性を前提にしている。存在者は非者のそのまた非者、影の影であり、存在忘却より根源的な無の忘却としてのみ自同者でありうるのだ。自同者とは二重否定者であるに過ぎない。

 xはプラスx(存在者)である以前にマイナスx(非者)であった。このマイナスxは存在の内に映現せず、現象せず、現前しない。しかしその背後にひっそりと非現前する無気味な不在であるということができる。非者であるマイナスxは存在者の負号量の概念である。そこでこの非者の不在は単に「いない」という消極的な論理的意味での空虚であるよりも積極的で実質的意味での強い響きをもった否定であり断定である。そこでこの非者・マイナスxは、「不在する」というより寧ろ「負在する」というべきである。それは単に存在しないのではなく、無という暗黒的様相にあって「無い」という仕方で独特に在るのである。
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by novalis666 | 2005-03-31 01:10 | 不可能性の問題