不可能性の問題1996年試論(8)東洋的無の安易な野蛮
2005年 03月 31日
[承前]
存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。
存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
この胎児は無によって魘される。
無は存在にとってそれなしには己れがあり得ない必然的なものでありながら存在を押し潰しかねない重苦しさとして、得体の知れない悪夢の影として、または存在を吸着し無の内へと消化融合しかねない侵食や腐蝕や皆既日蝕の不吉な黒い闇としてそれを永遠に包みこみ呪縛し幽閉める恐怖である。存在はこの己れの矛盾観念から脱出することができない。それから決して手を切ることは出来ない。
存在するとは無の内に、無の無底の深淵の内にに無限に落下する眩暈であり、無限に無へと消滅してゆくことの終わりなさ、無の無際限性の内にいつまでもいつまでも有限化されつづけてはてしもなくなることの黒々とした恐怖であり絶望である。存在は無から決して自由にはなれないし放免されることはない。それは無から永遠に分化され分娩され続けているのにいつまでたっても無の狭い息苦しい産道から生まれ出てゆくことのできない死に物狂いの瀕死の胎児のようでしかありえない。
無は存在の母であるが、優しい聖母などではなく、恐れ入谷(il y a)の鬼子母神というよりも遥かに恐ろしい人食い鬼であり、恐怖の母なのである。それは夢野久作が『ドグラ・マグラ』の巻頭歌で暗示する姿が見えないのにひしひしと脅かし戦慄してくる魔性の母性であると考える方が正しい。
胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか(『ドグラ・マグラ』巻頭歌)
夢野の荒唐無稽な小説の奥底に轟くどす黒いもののあの何ともいえないリアリティこそ真の意味での現実である。単に形式や話だけリアルな文学はありそうな話を単に捏造しているに過ぎない。我が国でリアリズムといわれている自然主義や写実主義は実はリアリズムもリアリティもまるでもってなどいない。それは単にプロバビリティの空想の産物でしかないのである。夢野の幻想的な小説にはそんな誤魔化しが片鱗もない。彼は何を書くべきかよく知っているのである。
同様のことは埴谷雄高の『死霊』についてもいえる。
彼らの文学は妄想という形式を取りながら実は一切誤魔化しのないリアリストの精神によって貫かれている。それは極めて厳しいものだ。
これに対して、我が国の空想的で愚かな文化がリアリズムとして空想したがっているようなリアリズムは単に皮相なだけであって、現実としての現実を本当は覆い隠してしまっている甘ったれの駄文なのである。夢野や埴谷はそのような似非文学を拒絶している。それは彼らが人間であり、猿ではないからである。人間には人間の現実がある。猿には猿の目に見える下等な現実(プロバビリティ)しかない。夢野は右翼の大物の子供として、埴谷は左翼運動に身を投じた政治青年として、われわれが現実と思いこまされているこの小市民的日常世界という演出された夢(表象)を背後で操作的に創造している真に現実的な力の剥き出しになっている「政治」という現場を、嫌というほど見てきている。それは悪でしかありえない。そして悪は自分の姿を見せないために都合のよい偽の現実を捏造してそれを相手に信じ込ませようとする。
夢野の『ドグラ・マグラ』も埴谷の『死霊』も精神病院を中心として展開するのはそのためである。精神病院はそれによって人間の精神を癒して現実に適応させるための装置ではなく、人間の精神を壊して、余計なこと、つまり権力にとって都合の悪いことを考えることや、現実の悪そのもの自体を直視する能力を奪い、権力にとって都合のよい偽の現実(現象)を表象するように調教する洗脳機関のメタファーである。
それに「治療」されることによって、人間は現実でないものを現実であると思い込むようになる。精神病院は「正気」を生産する機関である。それを社会公認のリアリズムであると言い換えるなら、彼らの作品の意図は非常によく分かる。彼らは所謂リアリズムに対して超越論的かつ認識論的な批判を行っているのである。彼らの文学は超越論的リアリズムであり文学による文学の批判である。
無を愚かな東洋の似非思想家がおめでたく夢想したような豊かな自然の作用としての無、例えば老荘思想の説く「道」(タオ)とか易の「太極」とか、仏教中観派の「空」とか、禅でいう無の境地とか、西田哲学などでいう純粋経験とか、涅槃とかのように極楽的で解脱的なものと夢想してはならない。そのような無の観念は単にお目出度いだけである。
無は決してそのような甘い春霞のような空想の余地のない、玲瓏と晴れ渡った冬の蒼天のように一点の曇りもなく、寒く、厳密で酷烈で明瞭で鋭い疑いがたくまた見誤りようもないもの、逃げ隠れしようにもどこにも逃げ場を許さない余りにもはっきりとしたもの、そして避けがたく襲い掛かってくる冷厳とした邪悪な破壊性でしかありえない。
無としての無は人間に都合よく出来てはいないし、それに直面した者の心を救うことなどありえない。無はどんな氷よりも冷たいし、どんな毒よりも苦い認識を人に強いるものである。
すべては無であると諦め切った人間は賢者ではないし解脱してもいない。単に打ち砕かれ、魂を殺され、心虚しい廃人になっているだけである。
そういう奴は莫迦である。逆に無は解脱などということは決してありえないことをしか教えない。無とはそれからの逃れ難さである。
無とはそれを決して解脱することのできない人間の最後の宿業のようなものだ。そんなものを悟って成仏するのだというような奴は最低の人種である。
私は寧ろ地獄を好む。何故なら成仏してそれに達するというようなひとでなしどもが考えついた涅槃だの極楽だのという神も女も蛇もいない虚無の境地というものは地獄よりも地獄的であるに決まっているからである。
しかし、たとえ悪党であったとしても心ある人間というものは魂の抜け殻の仏どもよりもずっと美しく高貴で素晴らしいものである。
私は人格と生命の美を愛する。人間に碌でもない抑圧的な命令をする威張り腐った神など叩き殺すべきであるが、それ以上に人間に虚無と諦めとを悟り澄ましたニヤニヤ顔で教え諭しにくる糞ったれの慈悲深い仏どもなどそれよりも激しい怒りをこめ、第六天魔王を名告った織田信長が僧侶を虐殺したよりも遥かに虐殺的に、二度と決して人間の前にその薄汚れた迷える魂が化けて出てなど来られぬように焼き払って一点の塵も残さぬまでに完全に焼却し、真の意味でのニルヴァーナへと成仏させてしまうべきである。
仏教などという半端なものがまだ残っているのは理解に苦しむ。成仏するのがそんなに素晴らしいなら仏教は己れ自身を末法の内へと真に徹底させ跡形もなくそれ自身が成仏(自己否定)しきってしまっていなければならない筈である。
それがよくなされていないのは要するにその否定を嫌らしく否定しているためである。確かに無は無化することによって存在に転ずるというのが一面の無の真理であるだろう。
しかし、それとこれとは話が別である。
解脱が意味するのは最早存在には転じないような無に到達することである。
存在に無が転じることを仏教用語で言えば輪廻である。
輪廻とは存在と無の悪循環以外の何であるだろうか。
解脱とはこの輪廻の悪循環から脱出することである。
仏教はその方位を神にではなく無に求めている。
その無に達して二度と存在へと生まれ変わらない人を仏というそうである。
しかし、無が素晴らしいものであるかのように思われるのは輪廻の内にあってよく無を悟り切っていないからであるに過ぎない。
解脱して無に達すれば、そのときにそこがどれほどひどいところかよく分かろうというものだ。
悪から逃れようとして人が救われたとき、実は自分がその諸悪の根源と合体してしまっただけであるに過ぎない。
昨日までは自分が輪廻の中で苦しんでいた。今度はその輪廻を自分から起こして他者を無の高みから苦しめる立場に立っただけの話だ。
ニヒリストとは要するにエゴイストなのである。
そのような世界に救いなどどこにもある訳がないではないか。
無はそれについて東洋的と西洋的との文化的差異というような得手勝手で適当でいい加減な戯言を聞き入れる余地の無い程にきっぱりとして手なづけがたい決まり切った概念である。
それは宇宙のどこにいっても同じ意味しかもちえない。
無とは単に無いことだ。無はついに無でしかありえない。
否定は否定なのだ。
その残酷で牙をむく無のように野蛮なものを、何か有難い愛や慈悲であるかのようにいって拝ませるような思想ほど人を愚弄したものはない。
それが東洋思想だというなら、それは単に何故東洋人が、そして特に東洋かぶれの癖に東洋を似非教養としてしか知らない日本人が、かくも野蛮で欺瞞を愛する独りよがりではた迷惑な世界の嫌われものになったのかを単によく説明してくれているだけである。
そんなものはただのニヒリズムだ。無神論より悪いのは、神の代わりに無を信ずるような無=神=目的論の形而上学である。
存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。
存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
この胎児は無によって魘される。
無は存在にとってそれなしには己れがあり得ない必然的なものでありながら存在を押し潰しかねない重苦しさとして、得体の知れない悪夢の影として、または存在を吸着し無の内へと消化融合しかねない侵食や腐蝕や皆既日蝕の不吉な黒い闇としてそれを永遠に包みこみ呪縛し幽閉める恐怖である。存在はこの己れの矛盾観念から脱出することができない。それから決して手を切ることは出来ない。
存在するとは無の内に、無の無底の深淵の内にに無限に落下する眩暈であり、無限に無へと消滅してゆくことの終わりなさ、無の無際限性の内にいつまでもいつまでも有限化されつづけてはてしもなくなることの黒々とした恐怖であり絶望である。存在は無から決して自由にはなれないし放免されることはない。それは無から永遠に分化され分娩され続けているのにいつまでたっても無の狭い息苦しい産道から生まれ出てゆくことのできない死に物狂いの瀕死の胎児のようでしかありえない。
無は存在の母であるが、優しい聖母などではなく、恐れ入谷(il y a)の鬼子母神というよりも遥かに恐ろしい人食い鬼であり、恐怖の母なのである。それは夢野久作が『ドグラ・マグラ』の巻頭歌で暗示する姿が見えないのにひしひしと脅かし戦慄してくる魔性の母性であると考える方が正しい。
胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか(『ドグラ・マグラ』巻頭歌)
夢野の荒唐無稽な小説の奥底に轟くどす黒いもののあの何ともいえないリアリティこそ真の意味での現実である。単に形式や話だけリアルな文学はありそうな話を単に捏造しているに過ぎない。我が国でリアリズムといわれている自然主義や写実主義は実はリアリズムもリアリティもまるでもってなどいない。それは単にプロバビリティの空想の産物でしかないのである。夢野の幻想的な小説にはそんな誤魔化しが片鱗もない。彼は何を書くべきかよく知っているのである。
同様のことは埴谷雄高の『死霊』についてもいえる。
彼らの文学は妄想という形式を取りながら実は一切誤魔化しのないリアリストの精神によって貫かれている。それは極めて厳しいものだ。
これに対して、我が国の空想的で愚かな文化がリアリズムとして空想したがっているようなリアリズムは単に皮相なだけであって、現実としての現実を本当は覆い隠してしまっている甘ったれの駄文なのである。夢野や埴谷はそのような似非文学を拒絶している。それは彼らが人間であり、猿ではないからである。人間には人間の現実がある。猿には猿の目に見える下等な現実(プロバビリティ)しかない。夢野は右翼の大物の子供として、埴谷は左翼運動に身を投じた政治青年として、われわれが現実と思いこまされているこの小市民的日常世界という演出された夢(表象)を背後で操作的に創造している真に現実的な力の剥き出しになっている「政治」という現場を、嫌というほど見てきている。それは悪でしかありえない。そして悪は自分の姿を見せないために都合のよい偽の現実を捏造してそれを相手に信じ込ませようとする。
夢野の『ドグラ・マグラ』も埴谷の『死霊』も精神病院を中心として展開するのはそのためである。精神病院はそれによって人間の精神を癒して現実に適応させるための装置ではなく、人間の精神を壊して、余計なこと、つまり権力にとって都合の悪いことを考えることや、現実の悪そのもの自体を直視する能力を奪い、権力にとって都合のよい偽の現実(現象)を表象するように調教する洗脳機関のメタファーである。
それに「治療」されることによって、人間は現実でないものを現実であると思い込むようになる。精神病院は「正気」を生産する機関である。それを社会公認のリアリズムであると言い換えるなら、彼らの作品の意図は非常によく分かる。彼らは所謂リアリズムに対して超越論的かつ認識論的な批判を行っているのである。彼らの文学は超越論的リアリズムであり文学による文学の批判である。
無を愚かな東洋の似非思想家がおめでたく夢想したような豊かな自然の作用としての無、例えば老荘思想の説く「道」(タオ)とか易の「太極」とか、仏教中観派の「空」とか、禅でいう無の境地とか、西田哲学などでいう純粋経験とか、涅槃とかのように極楽的で解脱的なものと夢想してはならない。そのような無の観念は単にお目出度いだけである。
無は決してそのような甘い春霞のような空想の余地のない、玲瓏と晴れ渡った冬の蒼天のように一点の曇りもなく、寒く、厳密で酷烈で明瞭で鋭い疑いがたくまた見誤りようもないもの、逃げ隠れしようにもどこにも逃げ場を許さない余りにもはっきりとしたもの、そして避けがたく襲い掛かってくる冷厳とした邪悪な破壊性でしかありえない。
無としての無は人間に都合よく出来てはいないし、それに直面した者の心を救うことなどありえない。無はどんな氷よりも冷たいし、どんな毒よりも苦い認識を人に強いるものである。
すべては無であると諦め切った人間は賢者ではないし解脱してもいない。単に打ち砕かれ、魂を殺され、心虚しい廃人になっているだけである。
そういう奴は莫迦である。逆に無は解脱などということは決してありえないことをしか教えない。無とはそれからの逃れ難さである。
無とはそれを決して解脱することのできない人間の最後の宿業のようなものだ。そんなものを悟って成仏するのだというような奴は最低の人種である。
私は寧ろ地獄を好む。何故なら成仏してそれに達するというようなひとでなしどもが考えついた涅槃だの極楽だのという神も女も蛇もいない虚無の境地というものは地獄よりも地獄的であるに決まっているからである。
しかし、たとえ悪党であったとしても心ある人間というものは魂の抜け殻の仏どもよりもずっと美しく高貴で素晴らしいものである。
私は人格と生命の美を愛する。人間に碌でもない抑圧的な命令をする威張り腐った神など叩き殺すべきであるが、それ以上に人間に虚無と諦めとを悟り澄ましたニヤニヤ顔で教え諭しにくる糞ったれの慈悲深い仏どもなどそれよりも激しい怒りをこめ、第六天魔王を名告った織田信長が僧侶を虐殺したよりも遥かに虐殺的に、二度と決して人間の前にその薄汚れた迷える魂が化けて出てなど来られぬように焼き払って一点の塵も残さぬまでに完全に焼却し、真の意味でのニルヴァーナへと成仏させてしまうべきである。
仏教などという半端なものがまだ残っているのは理解に苦しむ。成仏するのがそんなに素晴らしいなら仏教は己れ自身を末法の内へと真に徹底させ跡形もなくそれ自身が成仏(自己否定)しきってしまっていなければならない筈である。
それがよくなされていないのは要するにその否定を嫌らしく否定しているためである。確かに無は無化することによって存在に転ずるというのが一面の無の真理であるだろう。
しかし、それとこれとは話が別である。
解脱が意味するのは最早存在には転じないような無に到達することである。
存在に無が転じることを仏教用語で言えば輪廻である。
輪廻とは存在と無の悪循環以外の何であるだろうか。
解脱とはこの輪廻の悪循環から脱出することである。
仏教はその方位を神にではなく無に求めている。
その無に達して二度と存在へと生まれ変わらない人を仏というそうである。
しかし、無が素晴らしいものであるかのように思われるのは輪廻の内にあってよく無を悟り切っていないからであるに過ぎない。
解脱して無に達すれば、そのときにそこがどれほどひどいところかよく分かろうというものだ。
悪から逃れようとして人が救われたとき、実は自分がその諸悪の根源と合体してしまっただけであるに過ぎない。
昨日までは自分が輪廻の中で苦しんでいた。今度はその輪廻を自分から起こして他者を無の高みから苦しめる立場に立っただけの話だ。
ニヒリストとは要するにエゴイストなのである。
そのような世界に救いなどどこにもある訳がないではないか。
無はそれについて東洋的と西洋的との文化的差異というような得手勝手で適当でいい加減な戯言を聞き入れる余地の無い程にきっぱりとして手なづけがたい決まり切った概念である。
それは宇宙のどこにいっても同じ意味しかもちえない。
無とは単に無いことだ。無はついに無でしかありえない。
否定は否定なのだ。
その残酷で牙をむく無のように野蛮なものを、何か有難い愛や慈悲であるかのようにいって拝ませるような思想ほど人を愚弄したものはない。
それが東洋思想だというなら、それは単に何故東洋人が、そして特に東洋かぶれの癖に東洋を似非教養としてしか知らない日本人が、かくも野蛮で欺瞞を愛する独りよがりではた迷惑な世界の嫌われものになったのかを単によく説明してくれているだけである。
そんなものはただのニヒリズムだ。無神論より悪いのは、神の代わりに無を信ずるような無=神=目的論の形而上学である。
by novalis666
| 2005-03-31 01:18
| 不可能性の問題