美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(9)視霊者の夢:超越論的悪夢について

[承前]

 根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
 この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
 しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。

 存在は断定性である。
 断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。

 それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
 それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。





 しかしそれは無を消すこと、換言すれば、無という存在に対する還元不可能な他者の他性的で不安にさせる無気味なざわめきを黙らせるためにその喉を締め付けて殺すことである。存在することはそのような殺人であり黙殺であり暗殺である。それは自己暗殺であり、どうすることもできない無の自殺(無の無化)なのだ。

 存在者は自己である以前に自殺者であり殺人者である。
 被害者・自己犠牲者・受難者・贖罪の山羊・加害者・虐殺者・告発者・追放者・占領者・征服者・カインにしてアベル、アブラハムにしてイサク、ヤコブにしてエサウであるということができる。

 存在することの裏側にはそのような決定不能の混乱した狂気の神話のモチーフが所せましと犇めき殺到している。

 それは「夢」である。

 夢見ることは些かも愚かしいことではない。
 夢見ることこそ存在することを最も真剣に引き受ける叡知的で恐るべき行為なのだ。

 夢見る人は眠っておらず、恐らく所謂目覚めている人、現実という夢のまた夢を夢とも知らずその偽りの目覚めに安住する人よりも遥かに目覚めている。
 所謂現実に目覚め起きている人の方こそ虚幻を現実と錯認している愚者である。
 つまりその人は己れが目覚めているという最も粗雑な夢を――自己欺瞞の嘘という恥ずべき夢を見ているに過ぎないのだ。

 現実は欺瞞である。
 存在者が存在するということは欺瞞である。
 真理は欺瞞である。それも良く出来た怜悧な欺瞞ではなく、単に己れが利口だと自惚れているだけの虚しい愚かさからくる朦朧とした欺瞞なのだ。それが存在論的真相なのである。

 夢見る人は眠っていない。
 むしろ眠ることの不可能性の方に拉致されてしまっていると考えた方がいい。

 夢見る人とは存在者に先立つ「無くは無い者」、「非無者」と言わざるを得ない厳密な存在論的カテゴリーである。
 カントの言葉を借りてこの特異な存在様式にある前存在者を「視霊者」と名付ける。

 「視霊者」は存在と無の間の次元にあって、夢という存在のざわめきを、その無が無化しつつ存在を存在せしめる否定の否定、破壊の破壊、存在無き純粋様相の炸裂的破壊触発が発する放射能(電磁波的能動性 radio-activity)を直接受け止める被爆者である。

 他面において彼は存在の無の核崩壊の直接無媒介的目撃者でもあるといえる。
 だが更に他面において彼は語の本来的な意味において「媒介者」すなわち「霊媒 medium」である。

 彼は自分自身を媒体とすることによって或る種の放送局へと局化を果たしつつ、無の無化を存在へとジョイントする地点に奇妙な仕方で定位して、存在者と非存在者(非者)、すなわち殺すカインと殺されるアベルの存在者の内なる双子への核-分裂様相をそれが危ういままに辛うじて結び付け繋ぎ留めるフックの機能を果たしていると考えられるからである。

   *  *  *

  影と影が触れ合い、響き合う。

 「xが存在する」という単純で肯定的で自明な出来事の内側で、実はそれには還元不可能な異変が地鳴りのようにどよもしている。
 それはxを場として起こる破壊的自己触発の出来事、存在の問い・存在の気配・存在のざわめきである。

 この形而上学的出来事を、レヴィナスは存在の位相転換=実詞化(イポスターズ)と言い、埴谷雄高は〈自同律の不快〉と言っている。

  パルメニデスからハイデガーに至る、或いは存在の吐き気について語ったサルトルまでも含めて西欧形而上学が総出でそれを隠蔽しようとしてきた自同律と存在の〈悪〉の裏面をレヴィナスや埴谷雄高は直視し、その真の意味での存在の意味を暴いているのだといえる。〈存在論〉は〈悪〉である。それも単に悪であるというよりも遥かに悪く必然的に悪なのだ。

 しかしそのことに全ての哲学者が気づいていなかったといえば言い過ぎである。私はサルトルを免除するつもりはないが、カントは免除されてよいと考える。それどころか物自体と根本悪について徹底的に省察したカントこそこの存在論の真の意味での根本問題を決定的に批判的にまた対決的にあらわにした思想史上最大の英雄なのである。埴谷雄高が戦時中政治犯として未決囚の独房でカントの『純粋理性批判』を読み抜き、そこからあの前代未聞の形而上小説『死霊』の基本構想を得ていったことはよく知られている。

 他方レヴィナスについては、実際に師弟関係のあったフッサールやハイデガーとの関連ばかりがやけに強調される向きがあるが、彼を単に現象学系の異色の哲学者としてしか見ないことに私は反対である。固有名の哲学者であるレヴィナスが、自分とまさに同じイマヌエルの名をもつカントにただならぬ関心を寄せていない訳がない。確かに表面上だけ見ればその実践哲学において自律を強調するカントと他律の倫理学を説くレヴィナスは対立しているかにみえる。

 しかし、レヴィナスがハイデガーとの対決にあたって随所で、しかも極めて重要なポイントでカントを引合いに出してくることは注目に値する事実である。倫理的な実存哲学を説くだけなら、彼は寧ろキルケゴールやヤスパースやブーバーについてもっと語る筈である。だが彼の倫理学は単なる倫理学ではなくて、形而上学としての倫理学である。周知のようにカントの批判哲学は、理論理性に対する実践理性の優位を説き、この立場から『純粋理性批判』において示した理論理性の形而上学の限界を乗り越えるものとして、実践理性の定言命法による道徳の形而上学を提起している。レヴィナスがハイデガーの存在論(理論理性)に対する己れの倫理の形而上学(実践理性)の優位を説き、その立場から、ハイデガーの世界内存在を批判するとき、レヴィナスはもはやフッサールの弟子というよりは二〇世紀のカントたろうとしているのである。

 カントは彼以前の哲学者(独断論と経験論)を物自体(外部)から切り離されていながらそれを本性的に錯認せざるを得ない現象の内に位置付けることにおいて彼らを超越論的に批判している。「現象」の内とは「可能性の内」、つまり理性の可能性=権利能力の範囲(権限)内ということである。このときカントは超越論的審級として物自体という認識不可能な外部性(超越的存在)を要請している。
 レヴィナスはハイデガーの世界内存在を「世界」の内そして「存在」の内から脱出しえない不可能性として記述するときに、超越論的審級として「他者」を持ち出してくる。「他者」は要請された形而上学的観念である。そこからハイデガーの「存在」を批判するとき、レヴィナスは同時にフッサールの「意識」をも批判せざるを得ない。両者は共に「現象」学という「可能性の内」に捕縛され、物自体である「他者」を見失っているから批判されねばならないのである。だからこそレヴィナスは師フッサールの厳密な学としての哲学である「現象学」を越える第一哲学=形而上学として「他者」の不可能性の倫理学を超越論的に要請するのである。
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by novalis666 | 2005-03-31 01:21