美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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不可能性の問題1996年試論(10)〈虚体〉の創造―悪夢の彼方に

[承前]

 〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
 そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
 これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。

 〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。





 もがけばもがくほど私は〈私〉というこの呪縛の縄に締め付けられる。それは別に肉体のことではない、意識それ自体が私を幽閉めるのである。それは自己同一性と自己関係性の二重拘束であり、存在論と倫理学が背反しながら一個の主体を差し押さえて窒息させようとしている重苦しい光景である。この有難迷惑で出来損ないの〈私〉という悪夢=絶望のことをキルケゴールは〈死に至る病〉と呼んでいた。〈私〉とは病いなのである。それはまさしく「隠喩としての病い」である。

 九鬼周造の言い方をもじって私はこれを〈「いきぐるしさ」の構造〉と呼ぶことにする。九鬼の〈「いき」の構造〉を私は別に良いとは思っていない。それは可憐であるがとても生きが悪いからである。しかし〈「いき」の構造〉は生きが悪くともまだどうにか生きているだけましである。〈「いきぐるしさ」の構造〉は生きが悪いどころの話ではない。それは〈「死にたい」の構造〉である。〈「人殺し」の構造〉である。それが現代の日本的実存の実態である。

 しかしこの「いきづまり」は必ず破壊することができる。そのような〈私〉はむしろ〈別人〉だからである。そんな奴は、ついには居やしないからである。逆に我々が見いださねばならぬものは〈他のようではありえない者〉としての〈非他者〉である。

 「自己と他者」というような出来損ないの倫理学的概念対こそが〈私〉というこの恥知らずな役立たずを不断に生産してしまう工場なのである。
 そんなものは詩学=製作学(ポイエーシス)であるに過ぎない。
 〈生産的思考〉こそが常に諸悪の根源なのである。
 それが実際に創っているのは、「自己と他者は別人である」という〈別人〉でしかない。

 〈別人〉とは、〈非他者〉つまり必然性を記述する「他のようではありえない」の中の「他のようでは」に当たるもののことで、まさに「別様に」あるところの得体の知れない怪物であり、日本型のイリヤであるといってよいものである。埴谷雄高が「のっぺらぼう」といったものは実にこの「別人」のことであり、それはレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」とは全く違う「日本人の顔」を作っているもののことなのである。

 〈別人〉はとてもみにくい。
 それはこのみにくい日本の文化そのもののみにくさとしてある。
 それは換言すれば〈恥〉である。

 〈別人〉は恥ずかしいものであり、そして人に恥を掻かせる悪意である。
 〈別人〉は恐ろしい。或る意味ではレヴィナスのいうような〈非人称のイリヤ〉よりも遥かにたちが悪い。レヴィナスの〈イリヤ〉は存在論的な悪であり、存在が襲ってくるという恐怖である。それは「実存者なき実存」である。しかし日本の〈別人〉は倫理学的な悪であり、みにくい善が犯してくるという悪寒である。
 それは「〈顔〉なき顔」、「他者なき顔」、〈他者〉の異貌としての「顔の暴力」なのである。

 それはなれなれしいと共にしかつめらしく、〈イリヤ〉よりも遥かに下劣な仕方で人間を侮蔑し、生き殺しにすることを楽しむネチネチとしたものである。それは陰湿でそして淫蕩である。優しげな顔をした残酷、愛の仮面をかぶった最低の殺意、それは白痴の悪霊である。

 〈非他者〉は元々はクザーヌスの概念である。
 この概念は人間の個性化にとって欠くことのできない優れたものである。
 しかしこの概念をヘーゲルが悪用して役に立たぬものに鋳直してしまったためにその元の姿は忘れ去られてしまった。
 それは少しも弁証法的ではない。ヘーゲルは〈非他者〉を殺して〈別人〉を作ってしまっている。

 「別人と非他者」の差異は様相論的なものであり、また表現と創造性の問題である。非他者とはレヴィナスやラカンが〈処女〉や〈もの〉と呼んでいるものと恐らく別ではない。
 またそれは古く日本で〈もののあわれ〉と呼ばれていたものとも別ではない。
 アリストテレスが〈神〉と呼んだもの、そして埴谷雄高が〈虚体〉と呼んで創造しようとしていたものはこれである。それが誕生するとき、〈私という現象〉は恐らく滅び去る。 埴谷のいう〈虚体〉とはきらきらしたきらめきのことなのだ。

 『死霊』の書かれざるラストシーンで至高の恋人同士である三輪与志と津田安寿子は、砂と崩れる大雄と共に息を止め、薄暗く空気の悪いマンホールの中で死ぬのか。

 それで終わりなのか。いいや、決してそうではないのだ。

 そのとき本当に砂となって崩れ落ちるのはこのみにくい現実、このみにくい偽りの宇宙の方なのである。そのとき悪夢が終わるのである。二人は死ぬのではない、逆にそれまでこそが死んでいたのである。そしてそのときにこそ本当の世界の中に生き返るのである。そこは澄んだきれいな光の風が暗闇を吹き払って流れる緑の園である。

 私には見える。二人はきらきらとした美しい瞳を見交わしてお互いに驚く。僕はきみで、あなたはわたしなのだ。それは何と素晴らしいことだろう。二人は生きている。本当に生きている。二度と決してこの二人が別れることはありえない。
 二人は微笑んでお互いに接吻をする。何故ならわたしはあなたに他ならないからである、別人というものはありえないからである。

 この二人が非他者であり、虚体はきらきらとするきらめきとなって偉大な非他者となったこの二人を永遠に永遠に祝福するのである。二人が創り出したのは何であろう。

 それは〈命〉である。

 それがなくては実体が真の実体であることのできない〈命〉である。
 虚体とは実体に宿る掛け替えのない生命のことなのである。
 虚体を創造して存在を革命することこそが実体を復活させることなのだ。

 私には見える。そのとき二人のところへあの唖で白痴の小さな少女の〈神様〉がそっとやってきて、とても奇麗な声で、初めて言葉を発するのだ、「おめでとう」と、にこにこ笑いながら。その〈神様〉はとても幸せそうで愛らしい。

 ああ、奇蹟が起こったのである。

 少女はやがて金色の声で歌い始め、そのとき、すべての死者が地の塵のなかから蘇って、二人のところへとやってくる。ご覧、それはみんな子供達だ。星々の群れだ。
 それがみんな二人の素晴らしい婚礼を祝いにやってくるのだ。

 あの少女は本当は唖でも白痴でもなくなっていたのである。

 このとき二人は知るのだ、彼女がただのあだ名ではなくて、本物の神様であったのだということを、二人は認識するのだ。
 二人が虚体を創造したので、神様には知性が戻り、言葉を話すこともできるようになったのである。

 二人が神を救った。そしてそれによって彼ら自身も救われたのだ。

 何故なら、神というのは彼ら自身の童心に他ならず、童心が声を言葉を奪われている限り、世界は神なき闇の悪夢に包まれるが、童心が目覚めて言葉を発するとき、邪悪な夢の呪縛は跡形もなく滅び去り、きらきらとするきらめきの風が、目覚めた神の万能の力を乗せて、大宇宙の眠りを暴くからである。そしてそのときにこそ真の天地創造が起こるのだ。

 私には分かる。何故青年が「三輪与志」と呼ばれたのか。何故恋人が「安寿子」と呼ばれたのか。「神様」という少女が何を意味し、そして本当は誰のことであるのかが。

 「三輪与志」というのは『創世記』にあるあの聖書で一番素晴らしい言葉から取られた名前だ。

 神はそれを見て〈よし〉とされた。

 『創世記』の冒頭にリフレインする感動的な語句である。
 それが言われなければ一つの創造は完結しないのである。
 天地創造の目的は単なるものの創造ではなく、美しいものを創造することだったのである。

 物の創造ではない。美の創造である。

 単に「光あれ」といって光があったとしてもそれは創造ではない。
 それはたんに存在するだけのことである。
 創造するとは、それを見て〈美し〉とすることである。
 或るものを見て〈美しい〉と思うとき、その人はそれを心から創造しているのである。

 美はまさに〈無からの創造〉である。
 美とは奇蹟なのである。
 美とは実体の創造である。

 美しくないならそれは実体ではない。
 それはただの存在でしかない。

 天地創造とは何か、それは「それを見て〈美し〉」とする大いなる肯定なのである。

 そのとき奇蹟が起こるのである。

 無から美を創造する人は、美から神を創造し、神から天地を創造し、その天地は彼の王国となる。そしてその王国に彼は永遠に神と共に生きるのである。これは〈「いき」の構造〉ではない。まさに〈「いき」の創造〉なのである。

 「三輪与志」の名の意味するのは〈美〉である。

 そして他方、「安寿子」とは、フランス語で天使を意味するアンジュから取られている。彼女は〈天使〉なのである。また、漢字の意味から分かるように、それは安らかな永遠の寿命をもつ存在のことである。彼女の象徴するのは〈命〉である。

 では「神様」とは何か。彼女は何故、白痴で唖なのか。
 その姉の名前「ねんね」にヒントがある。眠らされているからである。

 些か突飛な話をするようだが、神を白痴だと言った興味深いもう一人の作家の名をここに挙げておきたい。彼は埴谷雄高と無関係ではない。もう一人のポオの弟子、不可能性の恐怖作家H・P・ラヴクラフトである。

 埴谷雄高において「神様」と「ねんね」の可憐な姉妹として描かれているものをラヴクラフトはおぞましい邪神の姿に変換して表現してみせてくれている。
 白痴の創造神アザトースと海底に封印され死の眠りを眠るクトゥルフである。
 一方は幼女、一方は邪神の姿で描き出されているが、これはいずれもポオにおいて死美人やリジイアとして表現されたモチーフをそれぞれ別個に発展させていったものであることは明瞭である。
 従って両者を照らし合わせてみることは、まんざら莫迦げた方法ではない。
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by novalis666 | 2005-03-31 01:24 | 不可能性の問題