行為の出来:2.有り得る事が出来上がる
2005年 04月 01日
[承前]
出来事を有り得させるためには、
その由来の説明が出来事に付加されねばならない。
由来不明の出来事は不可解である。
出来事についてその由来の問いは必然的に伴って起こる。
如何にしてそして何によってその出来事は
まさにそれがそうあったとおりに有り得たのかをわれわれは知ろうとする。
出来事は単に現実的事実的に出来するだけではなく、
再びそれが可能性の中心から説明的に因果的に出来することが
出来なければならない。
さもなければそれは出来しない出来事、
出来ない出来事、出来損なった出来事、
出来の悪いまたは出来上がらない出来事であるしかない。
出来事は出来上がらねばならない。
出来事が出来上がるとき、
出来事はやっと完成し終結するのだといってよい。
このとき出来事は有り得終わった出来事であるということが出来る。
出来事は有り得終わったとき、
その有終の美(完成態/エンテレケイア)に達する。
そのとき出来事はその有るを得る。
さもなければ出来事は未だその有るを得てはいない。
出来事は無終的(無際限)で未だ無気味な不可能性の段階にあるといえる。
それは未だ終わりなき、未だ来るべき、未だ有り得ざる、
未完了にして不完全な現実的活動状態(現勢態/エネルゲイア)にあって
彷徨し流動している得体の知れない怪物であり、エニグマ(謎)であるに留まるといえる。
わたしはここでアリストテレス哲学の通常の解釈において、
殆ど全く同義語と解されている
エネルゲイア(現勢態ないし現実態)と
エンテレケイア(完全現実態ないし完成態)の両概念を
全く別の次元、別の位相にあるものとして切り離して考察している。
エネルゲイアとエンテレケイアは同義であるどころか、
わたしの観点では全く相異なる、
むしろ対立する概念であり、対立する運動に属する。
わたしはこの二つの間に鋏を入れて
両者の相互反照的・弁証法的交替性を
認識論的に切断することを通して、
わたしたちを呪縛している思考の法則のドグマの
ドグラマグラ性(マインドコントロール的幻術)を曝露し、
わたしたちが知らぬ間にそれに憑依されてしまっている
愚かな形而上学(イデオロギー)である〈現実主義〉の
夢の呪縛の不可能性の核心を衝き、
眠りびとをその混乱の眠りから真に目覚めさせる別の魔法を創造しようとするのである。
それはメタフィジクス(超自然学)としての形而上学ではない。
アポフィジクス、不自然学、寧ろ「形而外学」というべき
形而上学それ自身の黙示録的・革命的な異定立となるだろう。
アポフィジクスとは異なる物の見方であり、或る種の野心的な思想実験である。
その一環として、
わたしはデュナミス(可能性/潜勢態)の概念の批判を行わねばならない。
出来事を有り得させるためには、
その由来の説明が出来事に付加されねばならない。
由来不明の出来事は不可解である。
出来事についてその由来の問いは必然的に伴って起こる。
如何にしてそして何によってその出来事は
まさにそれがそうあったとおりに有り得たのかをわれわれは知ろうとする。
出来事は単に現実的事実的に出来するだけではなく、
再びそれが可能性の中心から説明的に因果的に出来することが
出来なければならない。
さもなければそれは出来しない出来事、
出来ない出来事、出来損なった出来事、
出来の悪いまたは出来上がらない出来事であるしかない。
出来事は出来上がらねばならない。
出来事が出来上がるとき、
出来事はやっと完成し終結するのだといってよい。
このとき出来事は有り得終わった出来事であるということが出来る。
出来事は有り得終わったとき、
その有終の美(完成態/エンテレケイア)に達する。
そのとき出来事はその有るを得る。
さもなければ出来事は未だその有るを得てはいない。
出来事は無終的(無際限)で未だ無気味な不可能性の段階にあるといえる。
それは未だ終わりなき、未だ来るべき、未だ有り得ざる、
未完了にして不完全な現実的活動状態(現勢態/エネルゲイア)にあって
彷徨し流動している得体の知れない怪物であり、エニグマ(謎)であるに留まるといえる。
わたしはここでアリストテレス哲学の通常の解釈において、
殆ど全く同義語と解されている
エネルゲイア(現勢態ないし現実態)と
エンテレケイア(完全現実態ないし完成態)の両概念を
全く別の次元、別の位相にあるものとして切り離して考察している。
エネルゲイアとエンテレケイアは同義であるどころか、
わたしの観点では全く相異なる、
むしろ対立する概念であり、対立する運動に属する。
わたしはこの二つの間に鋏を入れて
両者の相互反照的・弁証法的交替性を
認識論的に切断することを通して、
わたしたちを呪縛している思考の法則のドグマの
ドグラマグラ性(マインドコントロール的幻術)を曝露し、
わたしたちが知らぬ間にそれに憑依されてしまっている
愚かな形而上学(イデオロギー)である〈現実主義〉の
夢の呪縛の不可能性の核心を衝き、
眠りびとをその混乱の眠りから真に目覚めさせる別の魔法を創造しようとするのである。
それはメタフィジクス(超自然学)としての形而上学ではない。
アポフィジクス、不自然学、寧ろ「形而外学」というべき
形而上学それ自身の黙示録的・革命的な異定立となるだろう。
アポフィジクスとは異なる物の見方であり、或る種の野心的な思想実験である。
その一環として、
わたしはデュナミス(可能性/潜勢態)の概念の批判を行わねばならない。
by novalis666
| 2005-04-01 02:03
| 行為の出来