『眼球』 1978処女作
2005年 01月 25日
序
『眼球』は処女作である。
この作品は高校1年、十六歳の時に書かれた。この作品の文学的価値については分からない。しかし、ここには当時の僕の離人症の病理体験がどのようなものであったか、そしてそれを僕がどのようにして乗り切ろうとしたのかが、きわめて克明に描き出されている。
僕はこの年、埴谷雄高の『死霊』に出遭った。離人症に打ちのめされて何度も死を考えていた十六歳の少年にとって、埴谷雄高との出会いは天啓に等しかった。『眼球』は埴谷雄高の圧倒的な影響下で書かれた作品である。僕は彼から言葉を与えられ、そして命を吹き込まれたのだといっても過言ではないだろう。彼がいなければ僕はこの作品を書く事はなかった。そしてこの作品を書くことがなければ、きっと僕はもう生きてはいなかった。さもなければ僕は狂ってしまっていたに違いないと思う。だから、埴谷雄高は僕の生命と理性を破滅の淵から救ってくれた永遠の恩人なのである。
この拙い処女作を、だから、僕は今は亡き埴谷雄高の思い出に深い感謝と変わりなき敬愛の念をもって捧げたいと思う。
I 〈違和〉の章
灰色の水のおもてに身をかがめれば、そこにまどろむ自らの異妖に出遇うであろう。
(ああ、俺の眼と体との間のこの暗黒無限の底無しの幅よ。)超出せんとすれど超え出で得ざる、わが意識の沸きあがる飛躍は常にただ、重きわが身に引きずり落とされ、悪しき大地に縛りつけらるるのみ。そうだ。鏡の中に他人を観た経験は誰にもあるに違いあるまい。あるものがあるものに出遭うとき、そこには常に違和へと開かれた青く澄み渡った瞳があるものだ。
(それはそのものと同一となることを拒む無垢だ)
外界への馴化のまどろみを破れ、――おお、わが原初の眼、いにしえの魂よ。汝を眠らせし催眠の忌まわしき呪縛を解き、彼方へ――飛べ、翔び立て! そうだ。欺かれては、騙されてはならない。受け入れてはならない。
(驚きとは違和への悪しき覚醒……)
身を捩じって汝自身との違和に向き入るがよい。おのが身を引きずることなく、虚空へと飛び去りゆく仄かな影の白い気配をうっすらとそこに嗅ぐことができるぞ。
Ⅱ.〈空虚〉の章
根源的問いの前に瓦解してゆくものの意味。そこに暴かれゆくは、この宇宙と存在との畢竟内容の空虚なるか?
(俺と俺の故郷のたしかな場所は何処だ。ちょっ、生まれたような気がしない)
(現前せる対象〔もの〕全て一般のうちに、人びとが〈現実。そして他に何もなし〉と呼ぶところのものに、俺の認識の触覚がいまだ根付いておらぬと思い知る、あの完全空虚の訪れが、しばしば俺の魂の口枷となった。一切の記憶と断定を裁くあの永劫とも思われる不安とも不快ともつかぬ不可知の霧の乳白色の何と忌まわしかったことか!)
時おり、この現実の空虚へと覚ます、あの邪悪の鐘の音が、俺から存在実感を引っさらってゆくのだった。消滅の予感に頼りなくおびえ震える世界に芝居道具の薄っぺらいもろさを観た。
ああ、平面的非現実感! 厚み欠く大地、深み欠く青空、色褪せた自然、非在へと落ちてゆく存在の重量。紙の平面に消えてゆく空間の容積。そこに世界の実在を確かめようと差し伸べた手さえもが絵ののっぺりした平面の上のよそよそしい幻と化してしまうあの時。
あるのはただ頼りなくも非現実な〈表面だけの触感〉――そして、それがどんなにありありとそのあることをこの手のなかにくっきりと描き出してくるのだとしても――それだけなのだ!
(現実の退潮の後に残るは、全て主張を呑みこむ大暗黒の無音宇宙だ。俺の故郷はここにない。)
子供が甲高く歌っている。彼らは立っているだけで既にそこが故郷なのだ。――だが、ちょっ、今は故郷喪失を歌え、記憶持てる記憶喪失の歌を。
(子供、白昼、愚劣な明るさ、明晰の単純。さて世界が紙ならば、俺は神ならぬ神だ。びりっと破って捨ててしまおう。だがどうして破れやしない。それなら受容だが、ちえっ、卑劣だ。見ろ。仮象と未来と創造主のイデアの内に眠る前現実と不可視領域の可能な現実群とが、この現実の背筋を揺さぶり脅迫してくる――そこをどけ!)
判断。明白なものとして一つを取り、他を全て廃するということ。しかし、おお、判断など判断の死だ。判断など全て判断中止に他ならぬ。断定し現実に迎合する近視眼的知性め。そんな安定など転覆してやる。
――現実は現実ではない。
これが俺のテーゼだ。無限と現実との間に歯軋りする俺の無言は沈黙じゃない。無数のマグネットに捕らわれた動的平衡のもがきだ。ふむ、少なくとも現実よ、俺の故郷に恥じて少し言葉を慎むがいい。
Ⅲ.〈恐怖〉の章
(恐怖。生の本質である粘着湿潤なるものへの顕微鏡が眼のなかに生まれてしまったということ。そして際限なき微細なものへの落下だ。言葉と日常へと抽象化されていた物体のおぞましさが生来眠りこけていた意識をびくんと跳び上がらせる。A・HA、俺が降りちまったのは俺の脳髄の中だった。俺の思考が全て愚劣な原子流動だったなんて。俺は自分の脳を爆破したかった。ALAS! だがそこに俺そっくりに扮した物質者が立ち現れて、ぞっとする馴れ馴れしさでにたついた。「君は僕と離れた時、死ぬ。君はあくまで僕の一部に過ぎない。何者も自然=物質を離れてあり得ない」 そして、原初物質が裁きを下した。「判決。この精神はわれらに醜怪を見てしまった。その出来損いの眼玉に次の罰を科する。否定と自蔑の結晶体、最大の重荷、否のブラックホール」 ああ、この日常と習慣の快い魂の臥所〔ふしど〕を噛み砕いてしまった悪魔、開き直った矛盾め。)
否のブラックホール、それが俺の苦悩だ。
恐らく否定ほど重力ある思想は他にあるまい。そう、自らを支えきれぬ絶望は何もアインシュタイン宇宙にのみ存する事態ではないのだ。否が否へと潰れゆき、なお、否、否と吠え続ける矛盾、消しがたいこの矛盾……。
(虚存というその苦痛の王座〔みくら〕は、また、邪悪な永生を与えられた死刑囚への容赦なき電気椅子でもあった。虚無にして虚偽なるものを感じつつ、そこに縛り上げられた死刑囚は、判断を後から喰ってしまう否のブラックホールに生を阻まれ、物質=永久存在に縛られて死ぬこともできない。何という死の生か! 今やコギトの明証は干からびた。おお、コギトエルゴスムだなんて口にするだに恥ずかしい。われ思うされどわれなし、の方がずっと俺には合っている。ところで次なる懐疑論の自己矛盾は今や悪しき矛盾となって大声に呼ばわる――ひょっ、矛盾だといってそれが何だというのだ。)
さて、キリーロフは語った。〈スタヴローギンはおのれの信ずるものを信ずるとは信ぜず、おのれの信ぜぬものを信ぜずとは信ぜず。〉笑ってはいけない。矛盾と自蔑から一歩も出られず、自嘲のうちに醜く縊死したスタヴローギンは、その場に今もぶらさがっている。ああ、彼がその場処を飛び去るのはいつの日のことだろうか?
Ⅳ.〈別人〉の章
(俺が俺を捨ててなお俺であるなら、そこが俺と俺の故郷の確かな場処である。さて、俺が〈そいつ〉であることに俺の不快が根ざしているのだ。今は俺と〈そいつ〉とを遠心分離機にかけねばならぬ。)
鏡の中に独立した俺の眼玉に射すくめられて慄然とした。まるで意識の窓の視覚を幽霊のように残して肉眼=水晶球と俺の全身が鏡の中に別人として立っているかのように思えた。
(この奇怪な形態め。どっこい俺はお前でない。できるもんなら俺の意識を鏡に引きずり込んでみせるがいい。)
するとその魔の鏡はいきなり大口を開けて呑み込める全てを呑みこみ始めたのだった。まず、肉体が呑まれた。そして名前を、家族を、知人を、記憶を、感情を、性格を、大地を、挙句の果てに宇宙全体呑み込まれてしまった。移行し終わった世界は、俺である〈そいつ〉をも含めてまた元通り動き出した。俺に鏡が誘うように手を招く。「もうお前だけだ。」
しかし、俺は鏡の前にとどまって声もなく呟いた。(誘いに乗るな。ここにいるのが無垢なる俺だ。そして向こうのあいつは俺じゃあない。)
おお、眼球。恐らくはそここそ意識と現存在の唯一の窓であるばかりか、二つを永劫の対立と不和に置き、そこにその切断の刃もて〈俺〉をも真二つに切り裂き、違和を生む、当のものに他ならぬのだ。
Ⅴ.〈宇宙〉の章
(その狂気の前に汝が正常の狂気を恥じよ。われわれの正常の城はただ、多数決の卑劣と殺された局外者の遺骸の変じた砂の上に建っているばかりだ。さて、死者たちよ。君たちに捧げる、俺の拙い挽歌を聴け――現象という、暗き水泡のうちに、胎児のように膝を抱き、狭き自らに見入る、幾多の人々。大地にも、他の球体にも接し得ず、真空にただ浮くばかり、この泡沫宇宙。)
全肯定を信奉した俺の青春よ。自然との交換の中、ニルヴァーナへと近づきゆく光の予感に酔っていた熱い宗教感情の高まりゆく美しくも非情な巨大な愛よ。自然に美を見、呼吸に歓喜があったあの頃よ。否のブラックホールを〈全て善し〉と〈神=生命〉で薙倒した、力強かった全神論者よ。お前は世界に帰依したものだ。宇宙の大原子流動を見た望遠鏡的視覚よ。存在と空間を感覚しえたあの神秘的統一感の明晰な歓喜を俺は決して忘れたわけじゃない。
だが、存在界が人間になす二つの暴虐を忘れてはならない。誕生を拒みながら引きずり出された赤ん坊の原初意識の訴えはどうなる。死にゆく自己意識を物質=永遠輪廻に拡散したとて何が慰めであろう。お前は言った――物質=神=生命=永遠=宇宙=光∋人間と。だが宇宙も死ぬであろうと言ったとき、お前は笑って言った、(宇宙が死んでも無として残るだろう。そこから点が再び生まれ、線となり面となり宇宙はまた別の形で無から生まれるであろう。無となろうと神=存在=生命は生きている、死はない)と。
だがお前の全神論に自己意識の重みはまるで含まれていないのだ。お前は夢存論者が頑なに俺は神であり、他は幻像だとわめくのを嗤うだろう。だが今は俺の話を聞け。
(さて、最後の審判のその時に神の前にしゃしゃり出て大音声に呼ばわった一人の狂人があった。「お前は誰だ。何の権利があってそこに座っている。どけ。神は俺だ。そしてその他に何も無い」。その男は神の大哄笑に綿毛のように吹っ飛んでしまったのだが、だが笑ってはならないのだ。神、世界よ。たとい一瞬であるにせよ、あなたは現象の中で自分しか見えなかった狂人に裁かれたのだから。)
Ⅵ.〈叛逆〉の章
(存在素地。或いは真正〝無〟。そこと現実世界との間に隔絶の存するのを知れ。それこそ意識の故郷喪失を生む、根源的〈断層〉なのだ。)
(赤ん坊は最初眼が見えないという。――何を言う。見えないのではない。そこに違和を感じ、認識し得ず、受容し得ないのだ。赤ん坊の脳髄は必死に自己の無垢なる意識を歪めているのだ。生きるために、存在界を受容するために、必死に現象製造の作業を進めているのだ。眼、視覚で物自体を歪め、〈現象化=認識〉で意識を歪めている。そして、無垢を失った時に初めて世界を「見る」ことができるのだ。――だが赤ん坊は果たして自分のまわりの世界を受け容れただろうか?――否。〈慣れ〉のうちに最初の違和を愚かしく忘れてしまうことはあっても。)
私の内には忘れ去られ、今は視界の水平線に浮き沈むばかりの漠たる発生前の記憶がある。真正〝無〟、世界を点――重さも大きさも何もない無限小そのもの、すなわちゼロ次元――にまで縮め、更にそれを掻き消したようなそこ。無限真空の空間としての宇宙的虚空ではなく、いっさいの物的存在が自身を容れる幅をもたないところの、まさに視覚化されない時空のない〈微視なるもの〉の領域に茫としてあるようなそこを永劫の太古から眺め続けていたような、そんな記憶が時々浮かぶ。その時、私は何者でもなかった。存在ではなく純然たる意識として無の中に茫と広がり私語していたようでもある。――違和。それは〝無〟がいきなり神の創造行為によって存在界と無理矢理出遭わされた時からの、決して和し得なかった驚愕の尾を引いた思いではなかったか? 存在素地、或いは現実根源。私の故郷はそこであり、それこそが現実であった。私の意識はそこから引きずり出され、世界のために私の無垢は歪んだ。
(夢から熟眠に落ちると人は言う。いや、夢は実は続いているのだ。それは空白の夢、私達の原初の記憶なのだ。白昼のもののかたちを徐々に追い払い、やがて虚無、存在素地であり現実根源である真正〝無〟を思い出しているのだ。ひゅう、何故に眠らぬ人は気が狂ってしまうんだろう。また何故に人は眠りを安らかさと呼ぶんだろうか。おお、それは意識が存在界と出遭う時に強いられる歪みに耐え切れなくなっているからなのだ。)
恐らくはその真正〝無〟から〈点〉が宇宙発生の端緒として現出した時、そこからもう違和と不快は始まっていたのだ。存在素地と存在との間に引き裂かれた〈点〉の嘆き。ひゅう、それだけでも発生を司る神というのは許しがたい存在ではないか。存在素地、その無垢は既に私達から奪われてしまったのだ。創造以前のその場処は神が〈有〉を一つ創造するたびに減じていったのだ。
――そうだ。最後の審判はなければならない。その時、神=存在、現実世界は、〈存在素地=無=意識それのみ〉の前に裁かれねばならない。
造物主よ、世界よ、消え入らねばならないのはお前だ。私達、意識=無こそが神ならぬ審判者なのだ。さあ、自らお前の創造の身勝手を恥じ入るがよい。私達を無=創造以前から引きずり出し、有の汚れと肉の限定にわれらの無垢を歪め、違和に苦しめ、自分と自身の間に悪しく咲いた黒い薔薇、否のブラックホールの放つ〝否〟の毒花粉にさいなませたことを。さあ消えてしまえ。現実世界もろとも、そこに咲く双子の毒花――違和と否のブラックホールもろとも、おのれがそこから生じ来たったところの無の中へ。造物主よ、消え入らねばならぬのはお前だ。
Ⅶ.〈無限〉の章
(無限よ……。超我なる意識を呼ぼう。浮力を持って彼方へ、存在素地という無限可能のもとへ)
(存在素地――無限な可能性の平衡状態。白紙にとどまり、〈なる〉の自己限定を否む、その全とも無ともつかぬ無限にして無形式の思惟持てる超我のみ存する世界だ。妄想と現実の区別などそこにありはしない)
(人間は超我となる時に無限となる。そうだ。無限可変の名のもとに有限なる存在は変形せられなばならぬ。)
一枚のルドンのリトグラフィを見た時、一種名状しがたい思いがよぎった。
――眼球は不思議な気球のように無限の方に向う。(※注)
ルドンの眼は今や大気の中の単眼の気球となって茫漠とした浮力をもって空のかなた、宇宙の果てへと、上へ上へと、浮上してゆくのであった。大地から自らもそれと気づかぬうちに、ふんわりと離れゆき、かなた、茫とした暗黒にして広大な味気ない大真空宇宙の方向にその光なき瞳をかたくなに向けたまま。
(眼球=意識よ。飛べ、飛んでゆけ。そうだ。無限にまで馳せ昇り、そこで超我と存在素地をつかめ)
そうだ。俺もまたそのように物質=神、すなわち存在界を下方に置き去りにして、その流動のうちから違和の反発力を借りて、ホバークラフトのごとくに浮かび上がらねばならない。そして大気圏を離れ、何の抵抗摩擦もない真空宇宙を、その最初の浮力を保ちつづけて、上方へ上方へと泳ぎゆき、やがては宇宙の海の水面〔みのも〕にぼっかりと円く穴を開けて、もはやそこに空間もない真正〝無〟の領域にまで行くのだ……。
恐らくは、ルドンの眼もまた無限にまで達した時に、初めてその光なき巨大な瞳を下方に向けるであろう。下方へと振り返った時、そこでは物質=神が流動しているはずだ。そうだ。その時こそ、最後の審判を告げるラッパの音が大宇宙を震え上がらせることだろう。
眺め下ろす大眼球の下方で宇宙の表情が蒼白になるその時は、さて、いつの日に訪れるのであろうか。
※注 オディロン・ルドン(1840-1916 フランス 画家)の石版画集「エドガー・ポーに」(1882)収録作品Ⅰのタイトル。このタイトルはルドン自身の創作した一種の詩である。
初出:東京都都立日比谷高等学校 雑誌「日比谷」創刊号(昭和五十四年三月 創立百周年)
by novalis666
| 2005-01-25 19:27
| 詩集