美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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形而上学的〈風〉についての考察 -XⅢ 風の痕跡


XⅢ 風の痕跡


    

 高橋順一は、『始源のトポス』(エスエル出版会1986)のなかで、同一性の成立それ自体のうちに、不可避的にそれを抉るような、同一性には還元できない〈無〉への「媒介」の「始源的異化」の痕跡が孕まれてしまっていることを指摘している。
 これはわれわれの文脈でいう、風の風媒の漂流=彷徨とそれが破壊触発する存在論的災厄の火傷に該当するものである。

 高橋のいう〈媒介〉は、通常のヘーゲル主義がいうような止揚された同一性へと媒介するような媒介でもなければ、何らかの身元の割れた同一者の自己に遡及できるような媒介でもない。
 ヘーゲル主義の場合、媒介は他への媒介といわれるけれども、それは同一性へと回収可能な媒介であって、結局のところ自己への媒介を意味するに過ぎない。媒介は他を止揚することである。これは止揚的媒介であり、要するに媒介=同一性(同質性)なのである。
 しかし、高橋は、〈同〉に止揚不可能な異他性ないし異質性からの媒介について語ろうとしている。それは他〈への〉媒介ではなくて、他〈からの〉触発的媒介であるといっていい。
 自己または〈同〉は、この根源的他性を同化=止揚することはできない。おそらくただ排除することができるだけだ。しかしむしろ逆に自己または〈同〉の方こそが、根源的他性から排除され切り離されるという受動性によらなければ成立しえないのである。

 根源的なパッシヴィテ、受動性・受難性・情態性というべきパトスの様態がどうしても存在することの基底には、風の掻爬の痕跡として、或いは、燔祭の黒き精神外傷として、烙印のように焼きついている。

 これはどういうことか。――存在なき受動性としてのパッセが、通過とも過去とも受動とも消極ともいいがたいパトスとして、すなわち〈純粋様相〉としか言い得ないような何かが、時間と存在に先立つ出来事としてある、ということだ。
 おそらくそれは、出来事それ自身における根源的な分極化の運動を暗示している。

 パトスとトポスへの分極。一方は消極してゆき、もう一方は積極してゆくような陰陽の切断だ。それは陰極(-)と陽極(+)へと〈道〉という風の通行が起きて、ゼロの太極が生成し分化する運動であるといってよい。

 わたしは思わぬところで中国古代哲学のヴィジョンの驚くべき鋭さを再発見することになってしまった。
 しかし、このことは些かも「東洋回帰」などという、わたしが最も軽蔑しまた警戒するあの蒙昧主義を意味するものではない。わたしは東西の分裂を統合しつつ異化的に〈今ここ〉〈この私〉において創造しているからである。むしろ、このように語ることによって、東洋の曖昧で愚かな形而上学の徹底的な批判が開始するのだ。わたしは東洋の精神的独自性だの文化的優位性だのといった世迷いごとを如何にも言いたげにしているみにくい思想の顔が嫌いだ。
 わたしは日本人でもユダヤ人でもギリシア人でも中国人でもインド人でもアラブ人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でもありたくない。そんな奴らなどくたばれ!と思っているのである。
 むしろわたしは地球人であり、そして、そうであるよりもむしろ一個の〈宇宙人〉である。
 そして、この〈宇宙人〉こそ、わたしが見出すべき〈この私〉の究極の姿でなければならない。

 何故というに、宇宙的(universal)であるとはとりもなおさず普遍的であるということを意味するからであり、そしてこの宇宙性=普遍性のただなかにおいてしか、単独的な〈この私〉は見出され得ないが故に。

 単独的な実存〈この私〉を柄谷行人は社会性としての普遍性において捉えようとした。だが、それは片手落ちでありまた不徹底であるとわたしは考える。

 普遍性は社会性などよりもはるかに貧しい宇宙性のなかにこそ見いだされねばならない。宇宙性とはもはや独我論すら成り立ち得ないような徹底的な孤独、ついには自己同一性の自己崩壊にまで到るような厳格な破壊の孤独の中に見出されなければ全く意味がないし、そして単に空虚なだけだからだ。
 宇宙の中に身を置くことは端的に破滅である。しかし破滅しないものにどうして〈超人〉を、すなわち、一個の単純な人間を見出すことができるというのか。

 厳密にニーチェ的な意味における〈超人〉とはこの〈宇宙人〉としての〈この私〉のことである。
 わたしは、全てが覆り滅び去った後、再び舞い戻ってきてしまった軸の時代の思想家として、己れをこの宇宙の極としての〈この私〉の上に回転させなければならない。
 美しいものは星座である。わたしは双眸を大きく瞠り、大宇宙の荘厳のなかで最初に思考したであろうシュメールのマギの末裔としてのみ己れをアイデンティファイするであろう。

 しかし、この〈この私〉は、ただ宇宙のなかにそれを見出したという状態だけであるなら、それは未だに死んでいる。そして大宇宙は暗く、天に一個の星座も無い。
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by novalis666 | 2005-02-01 03:51 | 考察