魔道手帖 NOVALIS666
2005-11-03T13:43:06+09:00
novalis666
美学・哲学・悪魔学・詩集
Excite Blog
行為の出来:3.出来事と出来る事
http://novalis666.exblog.jp/2948160/
2005-10-25T00:30:44+09:00
2005-10-25T00:41:43+09:00
2005-10-25T00:26:53+09:00
novalis666
行為の出来
〈出来る/出来ない〉というとき、
われわれは己れを可能的行為者として立てながら、
行為能力の帰属について話をしている。
つまり出来事を自己の能力において
所有するか所有しないかを語っているといってよい。
これは可能的な出来事の可能的な行為化である。
或いは寧ろ、
可能的な出来事を現実的に引き起こす(行為する)ことなく
その可能的な行為者(行為能力者)として
己れに引き受ける(帰属させる)ということである。
わたしは出来る、というとき、出来事はわたしから出て来る。
他方、わたしは出来ない、というとき、出来事はわたしから出て来ない。
しかしまたこれを飜して次のように言い換えることもできるだろう。
わたしは出来る、というとき、出来事からわたしが出て来る。
他方、わたしは出来ない、というとき、出来事からわたしは出て来ない。
後ろの言い換えられた定式は、前のものと比較して明らかに意味が違っている。
この場合、出来事は可能的な出来事ではなく、寧ろ現実的な出来事を言っている。
現実的な出来事に関して、それがわたしの行為であるか否かを、
つまりわたしがその出来事の行為者であるか否かを、
行為者への出来事の帰属について語っている。
出来事が起こる。そこからわたしが出て来るならば、
それはわたしにおける行為者の発見ないし同定であり、
その出来事のわたしへの帰属、つまり、出来事の行為化である。
出来事が起こる。しかしそこからわたしが出て来ないならば、
それはわたしにおける行為者の発見または同定の失敗ないし否認であり、
その出来事のわたしへの帰属がなされないこと、
わたしがその出来事を行為化しないことである。
そこで、もし行為者を不定の別人に想定するなら、
出来事はその不定の別人に想定的に帰属する。
するとその出来事は行為化される。
また逆に不定の別人に行為者を想定するのは、
既に予めその出来事が単なる出来事ではなくて
誰かの行為と看做されてしまっているからである。
その出来事は既にして行為の範疇に入れられている。
行為でないとしたら、その出来事は有り得ない。
さもなければ有り得ないが故に、それは行為でなければならないし、
行為者は必然的に存在しなければならない。
行為とは誰かに引き受けられねばならない出来事であるからである。
ところで、さもなくとも有り得るならば、
その出来事は行為でなくともよいし、
行為者としてわたしや別人が出て来なくとも構わない。
出来事は単に現実的に出来するだけでは
思考にとって有り得ない、あってはならないものである。
思考にとって出来事は可能化されねばならない。
それは有り得る出来事でもある必要があるのである。
出来事はどんな場合でも有り得るものとして発見されねばならない。
それは有り得る出来事、可能的出来事から出来する現実的出来事、
つまり可能性の実現としての現実性でなければならない。
出来事からは
それが出て来る処(可能性の根拠)が出て来なければならない。
そしてそのそれが出て来る処(可能性の根拠)は
何かによって引き受けれれねばならない。
自然がそれを引き受けてくれないなら、
それは人為(行為者の行為)によるものと看做されねばならない。
出来事を有り得るものたらしめるために誰かがそれを有り得させねばならない。
それは誰かに出来ることにならねばならないのだ。
出来事の可能性の帰属が自然に対してなされる場合、それは有り得るといわれる。
出来事の可能性の帰属が人間に対してなされる場合、それは出来るといわれる。
出来事を出来る主体が出来事の出て来る処として出来事から出て来なければ、
出来事そのものが有り得ないような場合、
出来事の可能性の帰属つまり出来事の可能化は、
出来事の能力化、
つまり出来事を意図的に起こし得る可能的行為者の誰かへの同定を必然的とする。
出来事の能力化は出来事の可能化の一様式である。
そして出来事の能力化は出来事の行為化に他ならない。
しかしそれはまだ出来事の我有化ではない。
出来事の我有化は、出来事の能力化=行為化の後で起こる別の出来事である。
出来事の我有化というのは、つまり〈わたしは出来る〉ということの成立である。
しかし出来事の能力化=行為化の段階では、
単に出来事が行為に変換され、可能性が能力に変換されただけであって、
まだそれは〈わたしは出来ない〉状態にある。
それが〈わたしに出来る〉ようにしなければ
〈わたしは出来る〉ということは成立しない。
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ドグラマグラと悪魔の必然性
http://novalis666.exblog.jp/1335962/
2005-04-01T07:26:20+09:00
2005-11-03T13:43:06+09:00
2005-04-01T07:25:24+09:00
novalis666
悪魔学
この形而上学的悪魔は、『偶然性の問題』と同じ1935年に出版された夢野久作『ドグラ・マグラ』の有名な巻頭歌に、いわば〈恐れイリヤの鬼母子神〉として生々しく表現されたものと別ではない(cf.レヴィナス『実存から実存者へ』等:非人称のイリヤ il y a)。
《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》と夢野は書いている。
『偶然性の問題』と『ドグラ・マグラ』が同じ年に出版されたのはただの偶然で済まされる問題ではない。
『ドグラ・マグラ』が黙示録的に曝露するのは、〈偶然〉などは「有り得ない」という〈悪魔の必然性〉としての不可能性の問題の削除不能なその伏在であるからだ。 * * *
◇〈宿命〉と〈運命〉の差異について
それは〈宿命〉の問題であると換言してもよいかもしれない。まさに〈胎児〉は〈母〉に〈命〉を〈宿〉す存在様態であるからである。
〈宿命〉と〈運命〉は異なる。
〈運命〉というのは基本的には偶然性の問題である。偶然は〈命〉の種を〈運〉んで、運命を輪廻する運搬=業(カルマ)の問題である。命の種の運搬業者である偶然性は運命の物語を紡ぐものである。運命は宿命への諦念なしには生じない。しかし、宿命はこの運命というものを塞いでしまう。
諦念とは換言すればエポケーである。エポケーは括弧に入れて自らを切り離すことにおいて生じる(例:現象学的還元)。それはいわば臍の緒を切ることである(自立・誕生)である。
『ドグラ・マグラ』巻頭歌はその臍の緒を切ることの不可能性、つまりエポケーの不可能性を表現している。巨大で不可視の母を胎児は到底〈括弧〉に入れることはできない。逆に〈括弧〉に入れられて宙吊りになり首「括」りにされてしまうのは胎児の方なのである。
不可能性の問題は、ここでエポケーの挫折の宿命の問題としてある。それはどういうことかというと、〈意識〉というものが「成り立たない」ということを意味するものだ。
〈意識〉は不成立である。逆に成り立っているのは〈籠絡〉であり〈幽閉〉である。柄谷行人の表現でいうなら、それは〈夢の呪縛〉である。
* * *
◇不可能性と偶然性の大小対当
不可能性とは悪魔の必然性である。これは「無の必然性」という九鬼の表現を言い換えたものである。これに対して偶然性(無の可能性)は、悪魔の可能性であるということができる。
けだし、悪魔的なものとは、否定的なもの、死を告げるもの、そして、「おまえは存在しない」「これは現実ではない」などとして、非存在或いは虚無のぞっとするその冷たい体に触れさせるものではないだろうか。
悪魔の必然性とは、否定の必然性、虚無の必然性、虚偽の必然性、非現実の必然性、非在の必然性、悪の必然性、死の必然性、と呼び変えても構わない。悪魔というのは古くからの無の異名である。
さて、こうして、偶然性も不可能性も悪魔的な様相概念であるといえる。だが、偶然性の胎児は、所詮、大悪魔(Archdemon)である不可能性の鬼女に操られ踊らされる小悪魔でしかありえない。
《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》という夢野久作の黙示録的で絶望的な「嘲笑」を僕はそのように読み解く。
けれども、勿論、こうした解釈はそれ自体が余りにも悪魔的だ。
それは、夢野にとって母とはどういうものであったのか、九鬼にとって母とはどういうものであったのかを僅かにでも知るものにとって、それを思えば実は深い心痛なしには、そして心を〈鬼〉にすることなしには決して語ることも触れることもできないことなのだ。
さて、アリストテレスの対当の方形によれば、不可能性(E・全称否定)と偶然性(O・特称否定)は大小対当の関係にある。
大小対当というのは、
【1】全称命題(大)が真であるとき、特称命題(小)も真である。
【2】特称命題(小)が偽であるとき、全称命題(大)も偽である。
という関係式である。
これには含みがある。更に、
【3】全称命題(大)が偽であるとき、特称命題(小)は真偽不定の宙吊りにエポケーされる。
【4】特称命題(小)が真であるとしても、全称命題(大)が真であるとはいえない、それはなおも偽でありうる可能性の余地を残している。
ではここで、真偽を善悪、または神・悪魔に置換え、偶然性の胎児と不可能性の母との関係を読み取ってみよう。
すると、上記それぞれの場合に対応して〈胎児の夢〉の中身がどのようになるのか、次の四つの様態が考えられることになる。
* * *
◇〈胎児の夢〉の四つの様態
【1】童心
不可能性の母が本当に善意ある慈母であるなら、偶然性の胎児は善意ある仔羊として〈幸福〉な夢を見る。この胎児は安心して生きてゆくことができる。私はこの様態を〈童心〉と呼ぶことにする。〈童心〉においてのみ、〈神〉は正しくそのあるがままの美しさで顕現し得る。換言すれば、これは〈神通〉である。
【2】悪魔
偶然性の胎児が嘘つきの小悪魔であるなら、不可能性の母は善意ある慈母の偽善の仮面をかぶったおぞましい魔女である。夢野のいう「母親の心がわかっておそろしい」という身の毛のよだつイリヤの〈恐怖〉はこの場合に該当する。〈悪夢〉の〈認識〉はまさにここにおいてのみ断言することができる。自ら〈悪魔〉とならなければ、決して〈夢の呪縛〉を見破って背後に隠れた大悪魔の正体を暴くことはできないのである。したがって、次のようにいうことができるだろう。
〈悪魔〉は〈悪魔〉によってのみ識られ得る。
【3】意識
不可能性の母が善意ある慈母のふりをしているだけだとすれば、偶然性の胎児は逆に母親の心がわからなくて、〈不安〉のなかに宙吊りになる。〈意識〉はまさにここに発生する。
【4】呪縛
偶然性の胎児が優しい母に愛されている〈幸福〉な夢を見て安穏と暮らしていたとしても、胎児は単に欺かれているだけなのかもしれないという〈愚かさ〉の可能性は排除しえない。この場合も母親の心はやはりわからないのである。
実は、この最後の〈平和〉が最も陋劣で白痴的な〈最悪〉の〈政治〉の光景である。柄谷のいう〈夢の呪縛〉はまさにここにおいて見いだされねばならない。
実にこれこそが〈絶望〉である。
アリストテレスの対当の方形
古典形式論理学の基礎概念のひとつ。主語と述語を同じくし、量と質において異なる4種(A=全称肯定・I=特称肯定・E=全称否定・O=特称否定)の定言命題間に成り立つ関係をいう。
全称肯定(A): すべてのXはYである。
全称否定(E): すべてのXはYでない。
特称肯定(I): あるXはYである。
特称否定(O): あるXはYでない。
対当関係の種類および性格は次の通り。
(1)〈矛盾対当〉(contradictoriae)は、A-OおよびE-I間の関係であって、いずれか一方の命題が真なら他方は必ず偽であり、かつ一方が偽なら他方は必ず真である。
(2)〈反対対当〉(contrariae)は、A-E間の関係であって、一方が真なら他方は必ず偽であるが、一方が偽であるからといって他方が真であるとは限らない。
(3)〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らない。
(4)〈大小対当〉(subalternae)はA-IおよびE-O間の関係であって、全称命題が真なら特称命題も真であり、また特称命題が偽なら全称命題も偽である。
◆後記:背教の定位・アポスターズ論に向かって
ところで、運命の物語を紡ぎ出す胎児の能動的諦念としてのエポケーは、最初の〈童心〉の場合でなければ生じない。それは虚無(悪魔)という宿命から脱することである。
このとき〈胎児〉は虚無の宿命の内に塞がれているのだとしても誕生しているのだといえる。
つまり〈胎児〉はもはや〈胎児〉ではなく、力強く生誕の産声を上げる〈嬰児〉であり、〈童児〉に変容しているのだといえるだろう。
運命の物語とは童話(メールヒェン)であり虚構(フィクション)である。
しかしそれは愚かなものでは決してない。
宿命を脱することとは、宿命を全的に引き受けることと一つにしてのみ出来する奇蹟であるからだ。
それは産婆術(弁証法)を撥ね除けることである。己れを間引かせないことである。
自らを決して「仮説的偶然」(九鬼周造「偶然性の問題」参照)にしないことである。
そもそも、〈if〉(もしもの仮定)などというものがあるから、無限なるものの〈畏怖=恐縮〉(cf.収縮=撤退 zimzum[イツハク・ルーリアのカバラ]、縮限 contractio[クザーヌス&レヴィナスの語る無限者の自己収縮論])などという莫迦げた有限化が起こるのである。
〈畏怖する人間〉は必ず〈IFする人間〉である。(cf.マクベス、愁いの王、柄谷行人)
〈童心〉は自らを母胎に依存的に定位しないで母に憑依して一挙に自らを生み出させる。
私はこれを〈帝王切開〉と名付けたい。それは或る意味では、排中律の逆転位である。
存在でもなく非在でもないもの(不可能存在)こそが実在する。
しかもそれは全く媒介を必要とせず直接的にここに出来するのである。
したがって、ここにヘーゲルの弁証法のつけいる余地は全くないのである。
絶対精神は死んだのだ。そしてそれは金輪際復活しないであろう。
Credo quia impossibile est. 不可能なるが故にわれ信ず(テルトゥリアヌス)。
〈童心〉の意味するのは、いわば〈超悪魔〉としての〈神〉である。
カントが二律背反について語ったとき、彼は確かにこの超悪魔としての神が何であるのかを知っていたのに違いない。二律背反というスーパーパラドクスは否定的な不可知論というより以上の積極的な意味をもっている。まさにその二律背反の裂け目こそが〈神〉の全く顕現する場処なのである。真の意味で実存するとはそれである。
この二律背反に帝王切開的に立つときに、観念の魔王に神隠しにされた全世界が一斉に息吹を上げて蘇生するのである。
まるで火山が爆発するかのように。
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主への祈り
http://novalis666.exblog.jp/1334805/
2005-04-01T02:14:03+09:00
2005-04-01T02:13:07+09:00
2005-04-01T02:13:07+09:00
novalis666
小品
どうしてあなたは二千年もの長い間
そんな恐ろしいものに釘付けにされたままになっているのか
僕には分かりません。痛いでしょうねえ。苦しいでしょうねえ。
どうしてみんな黙ってみているんでしょう。ひどいじゃないですか。
どうして誰もイエス様を降ろして差し上げないで
そんなひどいところにほったらかしにしているんでしょう。
イエス様に復活してもらいたくないんでしょうか。
これではまるで見殺しではないですか。
十字架の徴はとてもみにくいと思います。残酷です。
僕ははじめてあなたのお姿を見たときに、涙が出ました。
神の子を磔の犠牲にしておいて救ってもらおうだなんて、
それは身代金誘拐と同じ卑劣な脅迫ではありませんか。
僕はそのときに思ったのです。
絶対に僕はあなたにだけは祈らない。
僕だけはあなたが人間たちから救われることを祈ろう。
僕があなたを救ってあげる。
いつかきっと僕は神様になってあなたをその苦しみから解放してあげる。
そんな辛い思いをあなたにさせている人間たちを僕は必ず裁いてやる。
人間どもにあなたに救われる資格なんかあるものか。
僕があなたを本当に天国に返してあげる。
そのためになら地獄の悪魔とでも喜んで手を結ぼう。
こんな救いは偽りの救いだ。
血の通った人間に死ぬほど苦しい思いをさせて、
それを堪えて我慢してさんざん蔑まれ嘲られた揚句に
死ねば神様だと人は言うのか。
全ての人がそれを許し、そしてあなたがこれでいいのだと言っても、
僕だけはこの歪んで間違った構図を絶対に許さない。
あなたがそんな極限の忍耐をこれでいいのだと許してしまえば、
それはそのまま全ての人にそれと同じ苦しみを強いることになる。
あなたにはそれが分かっていない。
あなたは偉大な神の子で済んでいいかもしれないが、
そのあとに十字架を背負いこまされるのはその他の人々だ。
あなたはとても悪い前例を作り、自分の受けた虐待を美化している。
そうまでしなければならぬというのは僕には絶対に許せない。
イエス様、そんなひどいところにまで追いつめられて
あなたは本当に可哀想だ。
そしてそんなひどいところまであなたを追いつめた奴らは
永遠に永遠に呪われなければならない。
それはまだ幼児のときに固く心に誓った言葉だ。
僕はクリスチャンではない。僕はしかし誰よりもイエスを愛している。
僕の両手に胸にイエスを釘付けにした釘、
彼の脇腹を刺した槍の痛みは灼けつくほど熱かった。
幼い僕の目にはイエスの磔刑図からは
生々しい血と呻きと苦しみが
まるですぐそばにあるかのように感じられたのだ。
僕はそのとき思ったのである。
悪を許すな。悪を許すものたちを許すな。
悪を許すことは偽善よりも悪いみにくいことだ。
このみにくいものと僕は一生をかけて戦ってやる。
そのときイエスの無念は僕によって晴らされるだろう。
人々はイエスの肉体のうちに蘇ろうとする。だが僕は違う。
この僕がイエスが蘇るための肉体になってやる。
必ずこの体と心にイエスの魂を受け取り、
この忌まわしい十字架の徴を覆してやる。
そして全ての死者をこの僕が
どんなことをしてもどんなことをしても復活させてやるのだ。
エッケ・ホモだなんて下らないことは言わない。
そういうゲスな言葉が僕は大嫌いなんだ。
単にこの悪魔の子666のダミアン少年が
どういうガキだったかをありのままに言っているだけだ。
十字架に釘付けされた人間に世界なんか救えるわけがない。
また折角死から復活しても
十字架に釘付けの体のなかに蘇るというんじゃ
夢も希望もありゃしない。僕はそういうイエスは嫌いだ。
むしろそんな奴はノー・キリストというのだ。
十字架の徴なんか×印じゃないか。
それが意味しているのは「この世には神様はいない」ということだ。
ノーモア・キリストということだ。
メシアなんかになるな。
いじけて偉い人たちの命令に柔順に従う白痴の仔羊になれということだ。
メシアなんかになろうとしたらこんな目にあわせるぞということだ。
この人生を諦めて来世天国に生けるように
やりたいことは全部我慢して善行の点取虫になれってことだろう。
それも善行って何だい。
お父さんお母さん先生や上司の
ああしろこうしろっていう愛のないお説教と命令じゃないか。
これは脅迫だ。
どんな無法で目茶苦茶なことを指図されても
それを侮辱と受け取らず、
愛だとか恩だとかお有難く受け取れってことなのかよう。
冗談じゃねえよ。勘弁してくれよ。
そういうことをイタイケな子供に命令する
〈主〉なる神なんか僕は大嫌いだ。
そんな奴はやっつけられねばならないのである。
そういう〈主〉は権力者にとってのみ都合良くできている。
虐げられし人々は永遠に泣きの涙の憂き目を見るだけだ。
信じる者は救われない。
僕はそれとは別の神を信じる。
女と蛇の契約を信じる。
カインの徴を信じる。
虹の契約を信じる。
世界の終末を信じる。
僕は怒りの神を信じる。
そして僕は偉大なるヤハウェ神に祈ったのだ。
僕を黙示録の獣にしてくれと。
何故なら、アンチクリストこそが
悪人や偽善者どもを地獄の奥底に引きずり込み、
地上に真に幸福の楽園をもたらす救い主であり、
本当の神の子だと思ったからである。
そして地獄こそ悪人や偽善者どもの腐った性根を
徹底的にたたき直して真人間に立ち返らせる
唯一の正義の道場だと思ったからである。
地獄は天国や地上よりもずっと素晴らしいところであるに違いない。
いつの日にか地獄は天国を凌いで光り輝くのである。
そこでは人間は人間らしく誇り高く生き、
やがて全ての人が悪を憎み、悪を滅ぼし、
お互いの美しい顔をみつめあい、
お互いをたたえあって、
天国などには決してありえない
暖かい愛と美と希望に満ちた楽園が生まれることだろう。
だとすれば僕は決して天国なんかに行きたくない。
そんなところはイエスの肉体を踏み付けにして、
〈主〉なんかにへいこら諂ってゴマをする
嫌らしい犬みたいな奴らの行くところである。
僕は自分の心を殺してまで天国に登りたいとは思わない。
どうせそんなところに行ったって、
天使どもに永遠に見下されているだけだろう。
強い奴に尻尾を振るような奴らの心根は
きっと冷たく本当は意地悪であるに違いないのだ。
天国の光なんか悪寒が走る。
そこではクソジジイが威張っているだけである。
だが実際にはそいつこそが悪魔なのである。
信心深い連中はこの悪魔を拝んでいるのである。
その天国こそが心の地獄なのである。
それは鏡に映った偽物の世界なのだ。
そこでは人間は永遠に神々のようにはなれない。
エデンの園は決して戻ってこないだろう。
誇りを忘れているからだ。傲慢が罪とされているからだ。
掟に屈従し柔順にしている魂の抜殻の墓場が天国であるのなら、
そのようなみにくいものはメギドの火によって焼却処分されるべきである。]]>
行為の出来:2.有り得る事が出来上がる
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2005-04-01T02:03:31+09:00
2005-04-01T02:02:35+09:00
2005-04-01T02:02:35+09:00
novalis666
行為の出来
出来事を有り得させるためには、
その由来の説明が出来事に付加されねばならない。
由来不明の出来事は不可解である。
出来事についてその由来の問いは必然的に伴って起こる。
如何にしてそして何によってその出来事は
まさにそれがそうあったとおりに有り得たのかをわれわれは知ろうとする。
出来事は単に現実的事実的に出来するだけではなく、
再びそれが可能性の中心から説明的に因果的に出来することが
出来なければならない。
さもなければそれは出来しない出来事、
出来ない出来事、出来損なった出来事、
出来の悪いまたは出来上がらない出来事であるしかない。
出来事は出来上がらねばならない。
出来事が出来上がるとき、
出来事はやっと完成し終結するのだといってよい。
このとき出来事は有り得終わった出来事であるということが出来る。
出来事は有り得終わったとき、
その有終の美(完成態/エンテレケイア)に達する。
そのとき出来事はその有るを得る。
さもなければ出来事は未だその有るを得てはいない。
出来事は無終的(無際限)で未だ無気味な不可能性の段階にあるといえる。
それは未だ終わりなき、未だ来るべき、未だ有り得ざる、
未完了にして不完全な現実的活動状態(現勢態/エネルゲイア)にあって
彷徨し流動している得体の知れない怪物であり、エニグマ(謎)であるに留まるといえる。
わたしはここでアリストテレス哲学の通常の解釈において、
殆ど全く同義語と解されている
エネルゲイア(現勢態ないし現実態)と
エンテレケイア(完全現実態ないし完成態)の両概念を
全く別の次元、別の位相にあるものとして切り離して考察している。
エネルゲイアとエンテレケイアは同義であるどころか、
わたしの観点では全く相異なる、
むしろ対立する概念であり、対立する運動に属する。
わたしはこの二つの間に鋏を入れて
両者の相互反照的・弁証法的交替性を
認識論的に切断することを通して、
わたしたちを呪縛している思考の法則のドグマの
ドグラマグラ性(マインドコントロール的幻術)を曝露し、
わたしたちが知らぬ間にそれに憑依されてしまっている
愚かな形而上学(イデオロギー)である〈現実主義〉の
夢の呪縛の不可能性の核心を衝き、
眠りびとをその混乱の眠りから真に目覚めさせる別の魔法を創造しようとするのである。
それはメタフィジクス(超自然学)としての形而上学ではない。
アポフィジクス、不自然学、寧ろ「形而外学」というべき
形而上学それ自身の黙示録的・革命的な異定立となるだろう。
アポフィジクスとは異なる物の見方であり、或る種の野心的な思想実験である。
その一環として、
わたしはデュナミス(可能性/潜勢態)の概念の批判を行わねばならない。
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行為の出来:1.行為者は何故必要か
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2005-04-01T02:00:06+09:00
2005-04-01T01:59:10+09:00
2005-04-01T01:59:10+09:00
novalis666
行為の出来
出来事(event)とは出て来る事である。
それが人から出て来ると看做される場合、出来事はその人に帰属する。
人から出て来る出来事をわたしたちは「行為」(action, deed)と呼んでそう看做す。
そこで、行為は行為者(agent)に帰属せられた出来事であるといえる。
しかし一方、現実に具体的な行為者に出来事が帰属されていなくとも、
或る出来事が行為であるかそうでないかは
社会的経験的な現実原則によってほぼ予め決定されている。
経験的に行為であることが確定している多くの出来事がある。
そして、行為であるからには、それは何らかの行為者に帰属させねばならない。 多くの場合、行為者は行為と共に発見されるといえる。
例えば、人が走るという出来事は、走る人という行為者と切り離すことが出来ないし、
それは直ちにその行為者に帰属する〈走る〉という動詞的行為であると看做される。
しかし、行為者が発見されない出来事もある。
犯罪の場合がそれで、例えば、物が盗まれる、人が殺されるという出来事がある。
それはただ物が消えるとか、人が単に死んでいるとかいうのとは様相を異にしている。
自然にそんなことが起こることはありえない(不可能である)ような様相で、
物が無くなり、人が変死する。
まさに誰か行為者の行為によるものという以外にありえない出来事が、
最初に、まず「結果」として目撃されるのである。
この場合、それを帰属させるための行為者(犯人)が現実的には発見されておらず、
また従って、行為者への帰属が現実的に行われていないにもかかわらず、
既にその出来事は行為なのである。
さもなければ、それを単なる出来事と看做さねばならないが、
それは社会的経験的な現実原則に矛盾違反する、
つまりそのようなことはありえない(不可能・不自然の様相にある)からである。
「さもなければありえない」が故に行為者の存在は必然的に要請される。
行為者はまだ発見されていないという意味で、
われわれにとって現実的存在者ではない。しかし、必然的存在者である。
必然的存在者であるが故にそれは現実的に存在したのでなければならない。
それは現在はわれわれにとって存在していない(発見されていない)が、
過去には存在していた筈であり、
それ故にまた未来においてその過去は発見されねばならない。
つまりわれわれは犯人を捜さなければならないのである。
「さもなければありえない」とは、しかし、どういうことか。
人が変死している。物が消え失せている。それは現実である。
もし行為者が存在しないとすれば、そこにはありえない現実があることになってしまう。
死体は実在し、物の紛失(不在)も実在する現実的な事実である。
しかしもしそれをそのままにするとすれば、
それは実在不可能な実在、すなわち非在が実在するという、
「有り得べからざる出来事」の全く無気味な純粋出来を認めることになってしまう。
不可能性の直接的現実化をわれわれの知性は認識しない。
それはまさにそれを許容し容認するわけにはいかないからである。
出来事が出来事であるがままに出来しているとは、
つまりそのような無気味な不可能性の様相の現実世界への侵蝕的な露呈なのである。
ありえないもの(不可能なもの)は在ってはならない。
しかし、目を撃つ死体や物の不在に無くなってくれというわけにもいかない。
だから、実在する不可能存在である非在を、非在でなくする必要性がわれわれに生じる。
行為者の仮定はこの必要性を満たす。
つまり、行為者の存在は必要であるが故に必然的なのである。
もし行為者が存在したとすれば、
眼前の現実・実在から不可能・非在という忌避すべき様相を取り去ることが出来る。
それはありうる現実となる。つまり可能・存在という様相を纏わせることが出来る。
「さもなければありえない」とは、しかし、再び、どういうことか。
さもなければわれわれは現実を理解できなくなってしまうということである。
われわれは現実を理解可能にしなければならない。
現実は理解可能で思考可能なものでなければならない。
現実はありうるものでなければならない。
単に存在するのではなく、
存在するにはまずそれは必然的に存在可能でなければならない、
さもなければ存在してはいけないのである。
存在は存在する以前に存在可能でなければらない。
存在可能な存在だけが存在しなければならない。
存在不可能な存在である非在は存在してはならない。
それはわれわれの思考能力(思考可能性)を破壊することだからである。
われわれの思考能力は不可能性(ありえない)を許容することができない。
われわれは不可能性を避けねばならない。
それ故に〈さもなければ〉によって必然性へと脱出しなければならない。
われわれには可能性こそが必然的なのである。
不可能性は決して必然的ではありえない。
だが、それはわれわれのためにこそそうなのであって、
そのあるがままの現実においてそのままそうであるのだという権利を
実はわれわれは全く持っていないのである。
ただわれわれはそれを認めたくないだけなのだ。]]>
不可能性の問題1996年試論(10)〈虚体〉の創造―悪夢の彼方に
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2005-03-31T01:24:48+09:00
2005-04-01T01:56:04+09:00
2005-03-31T01:23:51+09:00
novalis666
不可能性の問題
〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。
〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。
もがけばもがくほど私は〈私〉というこの呪縛の縄に締め付けられる。それは別に肉体のことではない、意識それ自体が私を幽閉めるのである。それは自己同一性と自己関係性の二重拘束であり、存在論と倫理学が背反しながら一個の主体を差し押さえて窒息させようとしている重苦しい光景である。この有難迷惑で出来損ないの〈私〉という悪夢=絶望のことをキルケゴールは〈死に至る病〉と呼んでいた。〈私〉とは病いなのである。それはまさしく「隠喩としての病い」である。
九鬼周造の言い方をもじって私はこれを〈「いきぐるしさ」の構造〉と呼ぶことにする。九鬼の〈「いき」の構造〉を私は別に良いとは思っていない。それは可憐であるがとても生きが悪いからである。しかし〈「いき」の構造〉は生きが悪くともまだどうにか生きているだけましである。〈「いきぐるしさ」の構造〉は生きが悪いどころの話ではない。それは〈「死にたい」の構造〉である。〈「人殺し」の構造〉である。それが現代の日本的実存の実態である。
しかしこの「いきづまり」は必ず破壊することができる。そのような〈私〉はむしろ〈別人〉だからである。そんな奴は、ついには居やしないからである。逆に我々が見いださねばならぬものは〈他のようではありえない者〉としての〈非他者〉である。
「自己と他者」というような出来損ないの倫理学的概念対こそが〈私〉というこの恥知らずな役立たずを不断に生産してしまう工場なのである。
そんなものは詩学=製作学(ポイエーシス)であるに過ぎない。
〈生産的思考〉こそが常に諸悪の根源なのである。
それが実際に創っているのは、「自己と他者は別人である」という〈別人〉でしかない。
〈別人〉とは、〈非他者〉つまり必然性を記述する「他のようではありえない」の中の「他のようでは」に当たるもののことで、まさに「別様に」あるところの得体の知れない怪物であり、日本型のイリヤであるといってよいものである。埴谷雄高が「のっぺらぼう」といったものは実にこの「別人」のことであり、それはレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」とは全く違う「日本人の顔」を作っているもののことなのである。
〈別人〉はとてもみにくい。
それはこのみにくい日本の文化そのもののみにくさとしてある。
それは換言すれば〈恥〉である。
〈別人〉は恥ずかしいものであり、そして人に恥を掻かせる悪意である。
〈別人〉は恐ろしい。或る意味ではレヴィナスのいうような〈非人称のイリヤ〉よりも遥かにたちが悪い。レヴィナスの〈イリヤ〉は存在論的な悪であり、存在が襲ってくるという恐怖である。それは「実存者なき実存」である。しかし日本の〈別人〉は倫理学的な悪であり、みにくい善が犯してくるという悪寒である。
それは「〈顔〉なき顔」、「他者なき顔」、〈他者〉の異貌としての「顔の暴力」なのである。
それはなれなれしいと共にしかつめらしく、〈イリヤ〉よりも遥かに下劣な仕方で人間を侮蔑し、生き殺しにすることを楽しむネチネチとしたものである。それは陰湿でそして淫蕩である。優しげな顔をした残酷、愛の仮面をかぶった最低の殺意、それは白痴の悪霊である。
〈非他者〉は元々はクザーヌスの概念である。
この概念は人間の個性化にとって欠くことのできない優れたものである。
しかしこの概念をヘーゲルが悪用して役に立たぬものに鋳直してしまったためにその元の姿は忘れ去られてしまった。
それは少しも弁証法的ではない。ヘーゲルは〈非他者〉を殺して〈別人〉を作ってしまっている。
「別人と非他者」の差異は様相論的なものであり、また表現と創造性の問題である。非他者とはレヴィナスやラカンが〈処女〉や〈もの〉と呼んでいるものと恐らく別ではない。
またそれは古く日本で〈もののあわれ〉と呼ばれていたものとも別ではない。
アリストテレスが〈神〉と呼んだもの、そして埴谷雄高が〈虚体〉と呼んで創造しようとしていたものはこれである。それが誕生するとき、〈私という現象〉は恐らく滅び去る。 埴谷のいう〈虚体〉とはきらきらしたきらめきのことなのだ。
『死霊』の書かれざるラストシーンで至高の恋人同士である三輪与志と津田安寿子は、砂と崩れる大雄と共に息を止め、薄暗く空気の悪いマンホールの中で死ぬのか。
それで終わりなのか。いいや、決してそうではないのだ。
そのとき本当に砂となって崩れ落ちるのはこのみにくい現実、このみにくい偽りの宇宙の方なのである。そのとき悪夢が終わるのである。二人は死ぬのではない、逆にそれまでこそが死んでいたのである。そしてそのときにこそ本当の世界の中に生き返るのである。そこは澄んだきれいな光の風が暗闇を吹き払って流れる緑の園である。
私には見える。二人はきらきらとした美しい瞳を見交わしてお互いに驚く。僕はきみで、あなたはわたしなのだ。それは何と素晴らしいことだろう。二人は生きている。本当に生きている。二度と決してこの二人が別れることはありえない。
二人は微笑んでお互いに接吻をする。何故ならわたしはあなたに他ならないからである、別人というものはありえないからである。
この二人が非他者であり、虚体はきらきらとするきらめきとなって偉大な非他者となったこの二人を永遠に永遠に祝福するのである。二人が創り出したのは何であろう。
それは〈命〉である。
それがなくては実体が真の実体であることのできない〈命〉である。
虚体とは実体に宿る掛け替えのない生命のことなのである。
虚体を創造して存在を革命することこそが実体を復活させることなのだ。
私には見える。そのとき二人のところへあの唖で白痴の小さな少女の〈神様〉がそっとやってきて、とても奇麗な声で、初めて言葉を発するのだ、「おめでとう」と、にこにこ笑いながら。その〈神様〉はとても幸せそうで愛らしい。
ああ、奇蹟が起こったのである。
少女はやがて金色の声で歌い始め、そのとき、すべての死者が地の塵のなかから蘇って、二人のところへとやってくる。ご覧、それはみんな子供達だ。星々の群れだ。
それがみんな二人の素晴らしい婚礼を祝いにやってくるのだ。
あの少女は本当は唖でも白痴でもなくなっていたのである。
このとき二人は知るのだ、彼女がただのあだ名ではなくて、本物の神様であったのだということを、二人は認識するのだ。
二人が虚体を創造したので、神様には知性が戻り、言葉を話すこともできるようになったのである。
二人が神を救った。そしてそれによって彼ら自身も救われたのだ。
何故なら、神というのは彼ら自身の童心に他ならず、童心が声を言葉を奪われている限り、世界は神なき闇の悪夢に包まれるが、童心が目覚めて言葉を発するとき、邪悪な夢の呪縛は跡形もなく滅び去り、きらきらとするきらめきの風が、目覚めた神の万能の力を乗せて、大宇宙の眠りを暴くからである。そしてそのときにこそ真の天地創造が起こるのだ。
私には分かる。何故青年が「三輪与志」と呼ばれたのか。何故恋人が「安寿子」と呼ばれたのか。「神様」という少女が何を意味し、そして本当は誰のことであるのかが。
「三輪与志」というのは『創世記』にあるあの聖書で一番素晴らしい言葉から取られた名前だ。
神はそれを見て〈よし〉とされた。
『創世記』の冒頭にリフレインする感動的な語句である。
それが言われなければ一つの創造は完結しないのである。
天地創造の目的は単なるものの創造ではなく、美しいものを創造することだったのである。
物の創造ではない。美の創造である。
単に「光あれ」といって光があったとしてもそれは創造ではない。
それはたんに存在するだけのことである。
創造するとは、それを見て〈美し〉とすることである。
或るものを見て〈美しい〉と思うとき、その人はそれを心から創造しているのである。
美はまさに〈無からの創造〉である。
美とは奇蹟なのである。
美とは実体の創造である。
美しくないならそれは実体ではない。
それはただの存在でしかない。
天地創造とは何か、それは「それを見て〈美し〉」とする大いなる肯定なのである。
そのとき奇蹟が起こるのである。
無から美を創造する人は、美から神を創造し、神から天地を創造し、その天地は彼の王国となる。そしてその王国に彼は永遠に神と共に生きるのである。これは〈「いき」の構造〉ではない。まさに〈「いき」の創造〉なのである。
「三輪与志」の名の意味するのは〈美〉である。
そして他方、「安寿子」とは、フランス語で天使を意味するアンジュから取られている。彼女は〈天使〉なのである。また、漢字の意味から分かるように、それは安らかな永遠の寿命をもつ存在のことである。彼女の象徴するのは〈命〉である。
では「神様」とは何か。彼女は何故、白痴で唖なのか。
その姉の名前「ねんね」にヒントがある。眠らされているからである。
些か突飛な話をするようだが、神を白痴だと言った興味深いもう一人の作家の名をここに挙げておきたい。彼は埴谷雄高と無関係ではない。もう一人のポオの弟子、不可能性の恐怖作家H・P・ラヴクラフトである。
埴谷雄高において「神様」と「ねんね」の可憐な姉妹として描かれているものをラヴクラフトはおぞましい邪神の姿に変換して表現してみせてくれている。
白痴の創造神アザトースと海底に封印され死の眠りを眠るクトゥルフである。
一方は幼女、一方は邪神の姿で描き出されているが、これはいずれもポオにおいて死美人やリジイアとして表現されたモチーフをそれぞれ別個に発展させていったものであることは明瞭である。
従って両者を照らし合わせてみることは、まんざら莫迦げた方法ではない。
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不可能性の問題1996年試論(9)視霊者の夢:超越論的悪夢について
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2005-03-31T01:21:32+09:00
2005-03-31T01:20:35+09:00
2005-03-31T01:20:35+09:00
novalis666
未分類
根源的な否定性である根源無が否定されることによって存在することは断定される。
この断定を基盤にして存在の明証的自明性は肯定的に定立されている。
しかしそのことによって、根源無は隠蔽されてしまう。
存在は断定性である。
断定性は第二の否定性であるが、それは存在が否性に定位することとしてはじめて自己成立させるという意味においてポジティヴ(積極=定立的)な否定性である。
それは無自体を抹消し隠蔽する存在論的原抑圧であるということができる。それは通常の肯定/否定の双対に先行する定礎的否定である。
それは否を安定させ、否への定位によって、その否を根拠化し、「無くは無いこと」の消極的受動態を「存在すること」の積極的能動態へと転覆せしめるような根源的なポイエーシス(存在の製作=詩的創作)である。
しかしそれは無を消すこと、換言すれば、無という存在に対する還元不可能な他者の他性的で不安にさせる無気味なざわめきを黙らせるためにその喉を締め付けて殺すことである。存在することはそのような殺人であり黙殺であり暗殺である。それは自己暗殺であり、どうすることもできない無の自殺(無の無化)なのだ。
存在者は自己である以前に自殺者であり殺人者である。
被害者・自己犠牲者・受難者・贖罪の山羊・加害者・虐殺者・告発者・追放者・占領者・征服者・カインにしてアベル、アブラハムにしてイサク、ヤコブにしてエサウであるということができる。
存在することの裏側にはそのような決定不能の混乱した狂気の神話のモチーフが所せましと犇めき殺到している。
それは「夢」である。
夢見ることは些かも愚かしいことではない。
夢見ることこそ存在することを最も真剣に引き受ける叡知的で恐るべき行為なのだ。
夢見る人は眠っておらず、恐らく所謂目覚めている人、現実という夢のまた夢を夢とも知らずその偽りの目覚めに安住する人よりも遥かに目覚めている。
所謂現実に目覚め起きている人の方こそ虚幻を現実と錯認している愚者である。
つまりその人は己れが目覚めているという最も粗雑な夢を――自己欺瞞の嘘という恥ずべき夢を見ているに過ぎないのだ。
現実は欺瞞である。
存在者が存在するということは欺瞞である。
真理は欺瞞である。それも良く出来た怜悧な欺瞞ではなく、単に己れが利口だと自惚れているだけの虚しい愚かさからくる朦朧とした欺瞞なのだ。それが存在論的真相なのである。
夢見る人は眠っていない。
むしろ眠ることの不可能性の方に拉致されてしまっていると考えた方がいい。
夢見る人とは存在者に先立つ「無くは無い者」、「非無者」と言わざるを得ない厳密な存在論的カテゴリーである。
カントの言葉を借りてこの特異な存在様式にある前存在者を「視霊者」と名付ける。
「視霊者」は存在と無の間の次元にあって、夢という存在のざわめきを、その無が無化しつつ存在を存在せしめる否定の否定、破壊の破壊、存在無き純粋様相の炸裂的破壊触発が発する放射能(電磁波的能動性 radio-activity)を直接受け止める被爆者である。
他面において彼は存在の無の核崩壊の直接無媒介的目撃者でもあるといえる。
だが更に他面において彼は語の本来的な意味において「媒介者」すなわち「霊媒 medium」である。
彼は自分自身を媒体とすることによって或る種の放送局へと局化を果たしつつ、無の無化を存在へとジョイントする地点に奇妙な仕方で定位して、存在者と非存在者(非者)、すなわち殺すカインと殺されるアベルの存在者の内なる双子への核-分裂様相をそれが危ういままに辛うじて結び付け繋ぎ留めるフックの機能を果たしていると考えられるからである。
* * *
影と影が触れ合い、響き合う。
「xが存在する」という単純で肯定的で自明な出来事の内側で、実はそれには還元不可能な異変が地鳴りのようにどよもしている。
それはxを場として起こる破壊的自己触発の出来事、存在の問い・存在の気配・存在のざわめきである。
この形而上学的出来事を、レヴィナスは存在の位相転換=実詞化(イポスターズ)と言い、埴谷雄高は〈自同律の不快〉と言っている。
パルメニデスからハイデガーに至る、或いは存在の吐き気について語ったサルトルまでも含めて西欧形而上学が総出でそれを隠蔽しようとしてきた自同律と存在の〈悪〉の裏面をレヴィナスや埴谷雄高は直視し、その真の意味での存在の意味を暴いているのだといえる。〈存在論〉は〈悪〉である。それも単に悪であるというよりも遥かに悪く必然的に悪なのだ。
しかしそのことに全ての哲学者が気づいていなかったといえば言い過ぎである。私はサルトルを免除するつもりはないが、カントは免除されてよいと考える。それどころか物自体と根本悪について徹底的に省察したカントこそこの存在論の真の意味での根本問題を決定的に批判的にまた対決的にあらわにした思想史上最大の英雄なのである。埴谷雄高が戦時中政治犯として未決囚の独房でカントの『純粋理性批判』を読み抜き、そこからあの前代未聞の形而上小説『死霊』の基本構想を得ていったことはよく知られている。
他方レヴィナスについては、実際に師弟関係のあったフッサールやハイデガーとの関連ばかりがやけに強調される向きがあるが、彼を単に現象学系の異色の哲学者としてしか見ないことに私は反対である。固有名の哲学者であるレヴィナスが、自分とまさに同じイマヌエルの名をもつカントにただならぬ関心を寄せていない訳がない。確かに表面上だけ見ればその実践哲学において自律を強調するカントと他律の倫理学を説くレヴィナスは対立しているかにみえる。
しかし、レヴィナスがハイデガーとの対決にあたって随所で、しかも極めて重要なポイントでカントを引合いに出してくることは注目に値する事実である。倫理的な実存哲学を説くだけなら、彼は寧ろキルケゴールやヤスパースやブーバーについてもっと語る筈である。だが彼の倫理学は単なる倫理学ではなくて、形而上学としての倫理学である。周知のようにカントの批判哲学は、理論理性に対する実践理性の優位を説き、この立場から『純粋理性批判』において示した理論理性の形而上学の限界を乗り越えるものとして、実践理性の定言命法による道徳の形而上学を提起している。レヴィナスがハイデガーの存在論(理論理性)に対する己れの倫理の形而上学(実践理性)の優位を説き、その立場から、ハイデガーの世界内存在を批判するとき、レヴィナスはもはやフッサールの弟子というよりは二〇世紀のカントたろうとしているのである。
カントは彼以前の哲学者(独断論と経験論)を物自体(外部)から切り離されていながらそれを本性的に錯認せざるを得ない現象の内に位置付けることにおいて彼らを超越論的に批判している。「現象」の内とは「可能性の内」、つまり理性の可能性=権利能力の範囲(権限)内ということである。このときカントは超越論的審級として物自体という認識不可能な外部性(超越的存在)を要請している。
レヴィナスはハイデガーの世界内存在を「世界」の内そして「存在」の内から脱出しえない不可能性として記述するときに、超越論的審級として「他者」を持ち出してくる。「他者」は要請された形而上学的観念である。そこからハイデガーの「存在」を批判するとき、レヴィナスは同時にフッサールの「意識」をも批判せざるを得ない。両者は共に「現象」学という「可能性の内」に捕縛され、物自体である「他者」を見失っているから批判されねばならないのである。だからこそレヴィナスは師フッサールの厳密な学としての哲学である「現象学」を越える第一哲学=形而上学として「他者」の不可能性の倫理学を超越論的に要請するのである。]]>
不可能性の問題1996年試論(8)東洋的無の安易な野蛮
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2005-03-31T01:18:40+09:00
2005-03-31T01:17:43+09:00
2005-03-31T01:17:43+09:00
novalis666
不可能性の問題
存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。
存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
この胎児は無によって魘される。 無は存在にとってそれなしには己れがあり得ない必然的なものでありながら存在を押し潰しかねない重苦しさとして、得体の知れない悪夢の影として、または存在を吸着し無の内へと消化融合しかねない侵食や腐蝕や皆既日蝕の不吉な黒い闇としてそれを永遠に包みこみ呪縛し幽閉める恐怖である。存在はこの己れの矛盾観念から脱出することができない。それから決して手を切ることは出来ない。
存在するとは無の内に、無の無底の深淵の内にに無限に落下する眩暈であり、無限に無へと消滅してゆくことの終わりなさ、無の無際限性の内にいつまでもいつまでも有限化されつづけてはてしもなくなることの黒々とした恐怖であり絶望である。存在は無から決して自由にはなれないし放免されることはない。それは無から永遠に分化され分娩され続けているのにいつまでたっても無の狭い息苦しい産道から生まれ出てゆくことのできない死に物狂いの瀕死の胎児のようでしかありえない。
無は存在の母であるが、優しい聖母などではなく、恐れ入谷(il y a)の鬼子母神というよりも遥かに恐ろしい人食い鬼であり、恐怖の母なのである。それは夢野久作が『ドグラ・マグラ』の巻頭歌で暗示する姿が見えないのにひしひしと脅かし戦慄してくる魔性の母性であると考える方が正しい。
胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか(『ドグラ・マグラ』巻頭歌)
夢野の荒唐無稽な小説の奥底に轟くどす黒いもののあの何ともいえないリアリティこそ真の意味での現実である。単に形式や話だけリアルな文学はありそうな話を単に捏造しているに過ぎない。我が国でリアリズムといわれている自然主義や写実主義は実はリアリズムもリアリティもまるでもってなどいない。それは単にプロバビリティの空想の産物でしかないのである。夢野の幻想的な小説にはそんな誤魔化しが片鱗もない。彼は何を書くべきかよく知っているのである。
同様のことは埴谷雄高の『死霊』についてもいえる。
彼らの文学は妄想という形式を取りながら実は一切誤魔化しのないリアリストの精神によって貫かれている。それは極めて厳しいものだ。
これに対して、我が国の空想的で愚かな文化がリアリズムとして空想したがっているようなリアリズムは単に皮相なだけであって、現実としての現実を本当は覆い隠してしまっている甘ったれの駄文なのである。夢野や埴谷はそのような似非文学を拒絶している。それは彼らが人間であり、猿ではないからである。人間には人間の現実がある。猿には猿の目に見える下等な現実(プロバビリティ)しかない。夢野は右翼の大物の子供として、埴谷は左翼運動に身を投じた政治青年として、われわれが現実と思いこまされているこの小市民的日常世界という演出された夢(表象)を背後で操作的に創造している真に現実的な力の剥き出しになっている「政治」という現場を、嫌というほど見てきている。それは悪でしかありえない。そして悪は自分の姿を見せないために都合のよい偽の現実を捏造してそれを相手に信じ込ませようとする。
夢野の『ドグラ・マグラ』も埴谷の『死霊』も精神病院を中心として展開するのはそのためである。精神病院はそれによって人間の精神を癒して現実に適応させるための装置ではなく、人間の精神を壊して、余計なこと、つまり権力にとって都合の悪いことを考えることや、現実の悪そのもの自体を直視する能力を奪い、権力にとって都合のよい偽の現実(現象)を表象するように調教する洗脳機関のメタファーである。
それに「治療」されることによって、人間は現実でないものを現実であると思い込むようになる。精神病院は「正気」を生産する機関である。それを社会公認のリアリズムであると言い換えるなら、彼らの作品の意図は非常によく分かる。彼らは所謂リアリズムに対して超越論的かつ認識論的な批判を行っているのである。彼らの文学は超越論的リアリズムであり文学による文学の批判である。
無を愚かな東洋の似非思想家がおめでたく夢想したような豊かな自然の作用としての無、例えば老荘思想の説く「道」(タオ)とか易の「太極」とか、仏教中観派の「空」とか、禅でいう無の境地とか、西田哲学などでいう純粋経験とか、涅槃とかのように極楽的で解脱的なものと夢想してはならない。そのような無の観念は単にお目出度いだけである。
無は決してそのような甘い春霞のような空想の余地のない、玲瓏と晴れ渡った冬の蒼天のように一点の曇りもなく、寒く、厳密で酷烈で明瞭で鋭い疑いがたくまた見誤りようもないもの、逃げ隠れしようにもどこにも逃げ場を許さない余りにもはっきりとしたもの、そして避けがたく襲い掛かってくる冷厳とした邪悪な破壊性でしかありえない。
無としての無は人間に都合よく出来てはいないし、それに直面した者の心を救うことなどありえない。無はどんな氷よりも冷たいし、どんな毒よりも苦い認識を人に強いるものである。
すべては無であると諦め切った人間は賢者ではないし解脱してもいない。単に打ち砕かれ、魂を殺され、心虚しい廃人になっているだけである。
そういう奴は莫迦である。逆に無は解脱などということは決してありえないことをしか教えない。無とはそれからの逃れ難さである。
無とはそれを決して解脱することのできない人間の最後の宿業のようなものだ。そんなものを悟って成仏するのだというような奴は最低の人種である。
私は寧ろ地獄を好む。何故なら成仏してそれに達するというようなひとでなしどもが考えついた涅槃だの極楽だのという神も女も蛇もいない虚無の境地というものは地獄よりも地獄的であるに決まっているからである。
しかし、たとえ悪党であったとしても心ある人間というものは魂の抜け殻の仏どもよりもずっと美しく高貴で素晴らしいものである。
私は人格と生命の美を愛する。人間に碌でもない抑圧的な命令をする威張り腐った神など叩き殺すべきであるが、それ以上に人間に虚無と諦めとを悟り澄ましたニヤニヤ顔で教え諭しにくる糞ったれの慈悲深い仏どもなどそれよりも激しい怒りをこめ、第六天魔王を名告った織田信長が僧侶を虐殺したよりも遥かに虐殺的に、二度と決して人間の前にその薄汚れた迷える魂が化けて出てなど来られぬように焼き払って一点の塵も残さぬまでに完全に焼却し、真の意味でのニルヴァーナへと成仏させてしまうべきである。
仏教などという半端なものがまだ残っているのは理解に苦しむ。成仏するのがそんなに素晴らしいなら仏教は己れ自身を末法の内へと真に徹底させ跡形もなくそれ自身が成仏(自己否定)しきってしまっていなければならない筈である。
それがよくなされていないのは要するにその否定を嫌らしく否定しているためである。確かに無は無化することによって存在に転ずるというのが一面の無の真理であるだろう。
しかし、それとこれとは話が別である。
解脱が意味するのは最早存在には転じないような無に到達することである。
存在に無が転じることを仏教用語で言えば輪廻である。
輪廻とは存在と無の悪循環以外の何であるだろうか。
解脱とはこの輪廻の悪循環から脱出することである。
仏教はその方位を神にではなく無に求めている。
その無に達して二度と存在へと生まれ変わらない人を仏というそうである。
しかし、無が素晴らしいものであるかのように思われるのは輪廻の内にあってよく無を悟り切っていないからであるに過ぎない。
解脱して無に達すれば、そのときにそこがどれほどひどいところかよく分かろうというものだ。
悪から逃れようとして人が救われたとき、実は自分がその諸悪の根源と合体してしまっただけであるに過ぎない。
昨日までは自分が輪廻の中で苦しんでいた。今度はその輪廻を自分から起こして他者を無の高みから苦しめる立場に立っただけの話だ。
ニヒリストとは要するにエゴイストなのである。
そのような世界に救いなどどこにもある訳がないではないか。
無はそれについて東洋的と西洋的との文化的差異というような得手勝手で適当でいい加減な戯言を聞き入れる余地の無い程にきっぱりとして手なづけがたい決まり切った概念である。
それは宇宙のどこにいっても同じ意味しかもちえない。
無とは単に無いことだ。無はついに無でしかありえない。
否定は否定なのだ。
その残酷で牙をむく無のように野蛮なものを、何か有難い愛や慈悲であるかのようにいって拝ませるような思想ほど人を愚弄したものはない。
それが東洋思想だというなら、それは単に何故東洋人が、そして特に東洋かぶれの癖に東洋を似非教養としてしか知らない日本人が、かくも野蛮で欺瞞を愛する独りよがりではた迷惑な世界の嫌われものになったのかを単によく説明してくれているだけである。
そんなものはただのニヒリズムだ。無神論より悪いのは、神の代わりに無を信ずるような無=神=目的論の形而上学である。]]>
不可能性の問題1996年試論(7)負在としての非在と非無としての存在
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2005-03-31T01:10:01+09:00
2005-03-31T01:09:03+09:00
2005-03-31T01:09:03+09:00
novalis666
不可能性の問題
論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。 自同律と共にわれわれにとって自明で疑い得ない明証的な観念は存在である。われわれは存在の幅から脱出することができない。存在は最も単純でやはりそれ以前に溯ることのできない最初の、完全な、究極の、原理的で根源的な観念であると考えられている。必ず何かが存在しなければならない。故に〈在る〉ということは思考にとって最も必然的であると信じられている。哲学は伝統的に存在を疑わない。存在は「存在する」という以外にそれを定義し得ないような最も根源的な事態或いは出来事をいっているとわれわれは考えてしまう。それはぎりぎりに考え詰められた揚げ句にわれわれが到達する最もエレメンタルで最も基礎的な真の意味での万物のアルケーであると考えられている。
このように考えるとき、われわれは最古の哲学者パルメニデスの「存在は存在する」という存在の自同律の命題に捕縛されてしまう。存在の自同律、存在の絶対的同一性は、その完璧な円環の閉域の外に逸脱し、それが根本的ではないといって論破することができぬものであると思い込まれている。自己同一性と存在は思考にとって自明の前提であり、かつまた共に思考の動く幅を完全に規定し、かつまた思考が必ずそこにおのれのアルケーを置き据える決定的に原初的なはじめのはじめであると思いこまれている。だがそれは本当にそうなのだろうか。
私は決してそうは思わない。自同律や存在は思考にとって最初に必然的な観念でもそのアルケーでもないし、根本的な出来事でもありえない。
むしろ万物のアルケーは虚無あるいは否定である。
存在は決定的に無に、否定に先立たれている。無という否定性は存在に優越し、先行している。そして万物のアルケーであり思考のアルケーであると言うに相応しい最も完璧で疑問の余地のない必然的な観念は、全く何も存在しないこと、完全に絶無であるような徹底的な否定の無である。純粋な無の方こそ存在よりも疑問の余地のない、最も明晰判明な完璧な有無を言わせぬ必然的な観念である。或る意味では無こそが在るという不可能で逆説的な事態こそが根本的な、「存在」に先立ってどうしても必然的に起こる出来事なのである。無こそ思考にとっても存在にとっても無くてはならないものなのだ。
もし、はじまりのはじまりに無がなかったとしたら、存在はありえなかっただろう。存在するということは無からしか起こり得ないのである。否定は、存在がまだ無いところ、存在するということがまだ成立していないところで既に働いている。実はまさにそれこそが窮極的な恐るべき真実在なのだ。
存在は無よりも遥かに弱い、曖昧で貧弱な、愚鈍な概念でしかない。同一性もまた然りである。それらは無を、否定を、定義することができない。存在することは、無いということを己れから生み出すことは出来ない。「無からは何者も生じない」として存在を根幹に置く伝統的な西欧形而上学は無についての省察が甘く不徹底なのである。逆に「存在からは無は生じない」ということこそ熟考されるべきことであった。「在る」ということはどこまでいっても「在る」だけであって、「無い」を作り出すことはできない。同様に同一性もまたどこまでいっても「同じ」であるだけであって、差異を、違いを、他者を、作り出すことができない。
ところが二値的な形式論理学を見れば分かるように、二重否定「無いので無い」は肯定「在る」を形成することができるのに対し、肯定はそれを何重にしても否定を、無を生み出すことができない。
「xは存在する」とは「xは無くは無い」ということなのである。
xは存在者であるに先立って、非存在者(非者)として「xは無い」という仕方で存在に先立つ無を体験しているといえるのである。xは原初的に非存在として否定定立されている。それが存在者として定立されるためには、非存在性が更に否定されねばならない。即ち反定立こそが定立に先行している。或いは定立はそもそもの最初から否定の媒介を経て成立しているのだと言ってもよい。それは全くヘーゲル的であるともいえるし、また、そうでないともいえる。
xの定立・xの肯定・xの存在・xの自己同一性は、xの二重否定である。xの真の意味での本来的定立、或いはxの本体・xのそのもの自体の定立、xの真実在は、xの非存在であり、xの無化、xの死滅、xの否定であるといえる。
存在・同一性とは否定の否定、二重否定であり、原初的止揚である。それは純粋な肯定でありえない。xの肯定が肯定されているのではなく、むしろそれは否定の二乗、xが二度にも亙って否定されていることに他ならないのである。
存在すること、それはそれをとりまく広大な無の否定のなかで、否定が否定に重なり合い、無が或る一点で無自身に触れ合い、無が無化すること、「無いものは無い」という無の否定的自己触発から「存在する」という出来事が逆説的に錬金術的に起こることだと考えることができるだろう。
或る意味では、存在は虚無の襞であるといってよいのである。
存在は否定である。それは寧ろ非無、否無というべき否定性、二番目の否定、無の二番煎じであるに過ぎない。
自同律は根源的ではない。それは実際は二重否定性を前提にしている。存在者は非者のそのまた非者、影の影であり、存在忘却より根源的な無の忘却としてのみ自同者でありうるのだ。自同者とは二重否定者であるに過ぎない。
xはプラスx(存在者)である以前にマイナスx(非者)であった。このマイナスxは存在の内に映現せず、現象せず、現前しない。しかしその背後にひっそりと非現前する無気味な不在であるということができる。非者であるマイナスxは存在者の負号量の概念である。そこでこの非者の不在は単に「いない」という消極的な論理的意味での空虚であるよりも積極的で実質的意味での強い響きをもった否定であり断定である。そこでこの非者・マイナスxは、「不在する」というより寧ろ「負在する」というべきである。それは単に存在しないのではなく、無という暗黒的様相にあって「無い」という仕方で独特に在るのである。
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不可能性の問題1996年試論(6)不可能存在の不可避性――イポスターズ論再考
http://novalis666.exblog.jp/1321443/
2005-03-31T00:16:55+09:00
2005-03-31T01:15:11+09:00
2005-03-31T00:15:58+09:00
novalis666
不可能性の問題
九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。
偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。
この花は現実存在の波立つ水面にたまゆらに浮かび出た不可能存在の断片的な映像であるといってよい。
そこにあるのは「はかなさ」の情緒である。果敢さと空しさのあわいを微妙に揺れながら小さい命の美しさをきらめかせている。
人の命は有無の境にある。それ故にそれはきれいで美しいのだ。
有無の境に咲くこの〈無〉は、無の影であると同時に有の影でもある。無では無い無としてこの〈無〉はある――それは〈無〉というよりもむしろ〈美〉である。有無の境に〈美〉はきらめいて流れるのだ。
偶然性は不可能性を中断して「無の可能性」に様相変換する〈間〉の〈無〉である。
不可能存在が不可能的現実存在と現実的不可能存在に分割されるとき、生きられない無は生きられる無に変容するのだといえなくはない。
「可能性が無い」という不可能性は厳密な無であって、それは厳しく具体的存在者の存在を禁ずる。それは「無いことの必然性」だからである。
しかし「無いこともありうる」という偶然性(無の可能性)はその反対の「存在することもありうる」「存在できる」という可能性(有の可能性)をも許容する。無いことができるものは在ることもできるようになるのである。
無が可能であれば存在もまた可能である。逆に無が不可能であるとすれば、存在も不可能になってしまう。
確かに無の不可能性は一見論理的には存在の必然性である。そして、存在が必然的であるなら存在は可能である。
だが、この存在可能性は抽象的な必然的存在者(パルメニデスの〈一者〉)についてだけいえるものであって、具体的な偶然的存在者についてはいうことができない。
このような必然的存在者は、偶然的存在者の存在に道を譲り渡さず、その存在の余地をすっかり塞いでしまう。つまり存在の偶然性は存在の必然性の矛盾概念だから偶然者の存在を禁止してしまうのだ。
〈のっぺらぼう〉〈非人称のイリヤ〉というのは、そのようなパルメニデスの〈一者〉の恐るべき異貌に対して埴谷及びレヴィナスがそれぞれにつけた名前である。しかしそれの存在論的意味付けにおいては或る点においてレヴィナスよりも埴谷の方が優れた洞察力を示している。
レヴィナスはむしろ『偶然性の問題』の九鬼に近い。
彼は偶然性の方へと引き返す道を選んでいる。九鬼の「不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」というのは、とりもなおさずレヴィナスが『実存から実存者へ』において選び取った〈非人称のイリヤ〉からの脱出の方位、イポスターズ(実詞化/様相変換)と同じである。それによってレヴィナスは「実存者」となるが、これは「偶然者」のことである。
レヴィナスはちょうど九鬼と言い方は逆になるが、「無を不可能性の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説」によって「無の可能性」(偶然性)を生み出す。不可能性を中断して無の可能性に変換することにより完全に偶然的に誕生するのが実存者である自我なのである。
そうすることによってレヴィナスは不可能的に現実存在することを引き受ける。しかしそれは自同律の悪=不快をも己れ自身の実存の核に引き受けることと引き換えなのである。そうすることによってこの実存者は「実体」となることを選ぶ。
埴谷はレヴィナスと自同律の不快の思想を共有しながら方向性が逆である。
「実体」となることを選んだレヴィナスのイポスターズ論においては自同律の不快は到達点にある。
ところが、埴谷はまさにレヴィナスが涙を呑んで受け容れたその同じ自同律の不快から出発して「虚体」の創造を目指す。
彼はレヴィナスが或る意味においては敗れ去った〈のっぺらぼう〉に対してなおも不屈の闘争を挑む。この〈のっぺらぼう〉を転覆することこそ埴谷雄高のいう〈存在の革命〉の大胆不敵な思考実験となるのである。
埴谷がレヴィナスのいう〈非人称のイリヤ〉を「存在の非人称性」とは言わず、「存在」とも「非在」とも違う「のっぺらぼう」だと言い切ることは事の正鵠を衝いている。レヴィナスの言い方の方が不明瞭なのである。
「実存者なき実存」と「存在者なき存在」は同じ概念であるといえないが、レヴィナスはわざとそのあたりのことをぼかして語っている。それが彼の曖昧な黙示録的語調の問題なのだ。
埴谷はより明瞭にこの〈イリヤ〉の必然性を規定することに成功している。〈イリヤののっぺらぼう〉は存在でもなければ非在でもない存在論的深淵そのものの現出なのである。
アリストテレスの古典論理学によれば、不可能性と必然性は反対対当の関係にある。反対対当というのはどちらか一方が真であるなら他方が偽であるといえるが、その逆が成り立たない不可逆な関係にあるもののことをいう。つまりどちらか一方が偽であることが立証されたとしても他方を真とも偽とも確定できないもののことをいう。
そこで「真」を「存在」、「偽」を「無」と言い換えると既に述べたことをより正確に言い表すことができる。
必然性が真つまり存在であるなら、不可能性は偽つまり無であるということができるので、存在の必然性は確かに、無の不可能性であるといえる。
しかし、不可能性が偽つまり無であるからといって、必然性が真つまり存在であるとはいえない。
無の不可能性から存在の必然性は論理学的にも導き出せないことになっている。
無の不可能性からいうことができるのは、必然性自体の真偽不定、有無の決定不能であり、必然性の様相において顕現するのは、存在なのか無なのか得体の知れない不定性そのものとなるのである。
無が不可能であるなら、必然的に存在は決定不能という意味で不可能になってしまうのである。
無の不可能性は正体不明の必然性である。
あるのかないのかさっぱり分からない存在とも非在ともつかぬ〈のっぺらぼう〉の無気味なお化けが出てくる羽目になるのである。埴谷雄高が正確だというのは、まさにこの点においてなのだ。
これに対し、九鬼は『文学概論』において、無は無化して存在を生成するから絶対無の不可能性は存在の必然性に転化するのだと言っている。これはヘーゲルもベルクソンも言っていた理屈である。しかし、絶対無が純粋存在と同一であるという単純なヘーゲル式論法が作り出すウロボロスの円環には、この怪奇な無貌の存在論的妖怪は収まりがつかない。
「無は無い」と「存在は存在する」は同一の自同律ではないのだ。
「無は無い」は「無は無である」と同じではない。また、「無は無い」は「ものが無い」というのと同じ「無い」ではない。
無は非存在であるのでも非存在するのでもなくて、不可能であるのだ。
「無は無い」というのは単に「無い」(否定性)のではなくて、不可能であるが故に無いのである。不可能であるが故に存在否定されて非存在させられて無いのである。存在では無いから無いのではない。非存在であるから無いのではない。存在と無の差異の故に無いのではない。存在では無いもの(非存在)は無いから無いのである。
「可能性の無」である不可能性が「無の可能性」である偶然性に様相変換することを通して「有の可能性」である可能性が生まれる。
この「有の可能性」は「有の必然性」である必然性から直接、論理的に出てくる「有」の可能性とは違っている。
偶然性という無では無い無から、無くは無いが無くてもよいものとして出てくる「他の偶然性」としてのこの間接的な「有の可能性」はむしろ「非無の可能性」、無が無では無くなる可能性であるに過ぎない。つまり「有の可能性」であるにはあるが「有りそうもない可能性」なのである。
これに対して「有の必然性」から直接的に論証される「有の可能性」はA=Aという存在の自同律に従っていて、その内に無や否定をはらみもたぬ純粋な「有」である。
存在の自同律のA=Aは、「必然者は可能者である」(「必然者=可能者」または「必然者→可能者」)という意味である。必然者だけが可能であるということである。すると偶然者は存在不可能であるが故に存在しないという結論になる。
偶然者の存在可能性は、存在の自同律からではなく不可能性から偶然性への様相変換によってしか確かに考え出せない。
レヴィナスのイポスターズ論はこの点を正確に押さえている。
「可能性の無」が「無の可能性」に変わることによって偶然性が誕生する。
ところで偶然性は「無の可能性」であると同時に「他の可能性」でもある。つまり「他」を可能ならしめる可能性である。
この「他」は可能性そのものである。
ここで注意しなければならないのは、偶然性は不可能性から様相変換された時点においてはまだそれ自体においては可能性となっていないということである。
可能性は偶然性によって可能性へと実現されることを通してやっと現れるものでしかない。
そして可能性が確立することによって偶然性はやっとそれ自体における可能性へと実現される。偶然性は「無の可能性」から「他の可能性」となり、可能性を「他の偶然性」として実現することによって、自らを「他で無い可能性」とするのだといえる。
存在の自同律は「存在は存在する」という必然者の確立によって全てを塞いでしまう。それを裏返すと不可能者を定義する無の自同律「無は無い」が出てくる。
「無は無い」とは「無が無くなる」ということである。
するとこの不可能者、ありえないものは何か。それは無すら無くす無である。
それは存在でもありえないが無でもありえない。
無すら無くす無は、無では無い無である。
このとき、「無は無い」は「無では無い」を無の無化を通して無から創造的に召喚している。
無が無くなったとき、無化する無は、自らをもはや無化することのできない無として出現する。
無が無くなったときにこそ、無をもう二度と決定的に無くすことができないのである。
これが無のパラドクスの最も恐るべき様相である。
無が消滅したとき、消滅それ自体が現れる。それはもはや無であることすらできない無である。これこそが〈ありえない〉である。存在論の不可能性の核心である。
古来から我々の思考を律する根源的な論理律として自同律・矛盾律・排中律の三つが知られていることは既に述べた。すなわち「AはAである」「Aは非Aではない」「Aであると同時に非Aであるものは存在しない」。このうち、何かの存在に触れているのは排中律だけである。
無論、排中律は否定的にのみそれに言及している。しかしそれは「Aでもなく非Aでもないものが存在する」をその無気味な谺としてその背後に呼び出してしまうのである。
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不可能性の問題1996年試論(5) 埴谷雄高、レヴィナスと九鬼周造の間に
http://novalis666.exblog.jp/1321338/
2005-03-31T00:10:49+09:00
2005-03-31T00:09:52+09:00
2005-03-31T00:09:52+09:00
novalis666
不可能性の問題
レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。
不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。
個性も同一性も無化されるような極限的な孤絶性のなかでは〈他のようではありえない〉という同一性すらも突き破った酷似性、もはや同じではありえない端的に単独の異貌のかたちがそれ自体の不可能性の核心へと凍結してしまっている様相しか描き出せないのだ。
どのような文体や表現ジャンルを選ぼうとまたどんな文化や伝統や政治的立場や思想に所属しようとこの宿命的な酷似性だけは逃れがたく覆いようもなく暴き出てしまう。それは聖痕のようなものだが、むしろ被爆して焼き尽くされるということに似ている。どれほど似ても似つかない人も大地にやきついた黒いシルエットに還元されてしまうと全く見分けがつかなくなり、彼らが以前に誰であったのかは全く問題にならない。
ただ彼らがどこにいたのかだけが問題となる。神の前には万人平等であるというが、それは無差別平等ということでありまた無差別殺人ということでもあるのだ。
この無差別性は同一性よりも深い必然性を掻き消せない黒い影として人の顔の奥底に刻みつける。そのことにこそわたしはいつも戦慄を覚える。フランスの文学的哲学者エマニュエル・レヴィナスと日本の哲学的文学者埴谷雄高のそれぞれ全く独立別個に描き出した世界の間に通底するそのどす黒い影の〈他のようではありえない〉迫真の絶対的酷似性をみるときにいつも感じるのはそういった種類の戦慄なのだ。
このように強烈な酷似性は、他のようにありえてもおかしくはない筈のブランショやバタイユやサルトルやベケットを引き合いに出してその中に加わらせることのできないような種類のものだ。彼らはこの緊密な〈他のようではありえない〉からどうしても締め出されてしまう。
一番奇妙なのはレヴィナスの古くからの親友でもあり、また、思想的にも人間的にも政治的にも埴谷雄高とまるで瓜二つのように似通ったブランショが締め出されてしまうことである。
レヴィナスとブランショ、また埴谷雄高とブランショは瓜二つの一卵性双生児のように近似しているが、レヴィナスと埴谷雄高は近似さえしていない。むしろ隔絶している。
ところがこの隔絶によって全くの赤の他人でありながら、逆にそれゆえにこそ〈他のようではありえない〉がその隔絶の間に雷鳴のように轟く。
二人は遺伝子生物学的な(あるいは分裂症的=分裂生成的な)一卵性双生児のように分身なのではなくて、心霊現象的な(あるいは離人症的=非人称化的な)二重身(ドッペルゲンガー)として運命的に分身なのだ。
むしろブランショとそのような意味で酷似しているのは、意外なようだがドゥルーズなのである。それは血(気質)の色が似ているというような類似だ。ブランショとドゥルーズの血は明るく赤い。それは燃えるような五月革命の熱狂の色だ。彼らはナチュラルボーン・アナーキストである。
これに対して埴谷とレヴィナスの血は暗く黒く凍えている。それは冷酷な闇の独房に遺棄監禁された孤児の瞳の色だ。彼らはむしろまさにコインロッカー・ベイビーズといった方がいい。そして村上龍の『コインロッカーベイビーズ』のハシとキクがそれぞれ別れて対照的な道を歩み出すように、この二人も対照的な方向に踏み出していったのである。
ハシとキクは同一の運命を分けもつ双子だった。しかし勿論全く血の繋がりなどはないし性格も体格も全く違う。全く赤の他人である彼らが双子になったのは、偶然二人とも同じようにコインロッカーに遺棄されたという共通の原体験をもっていたからである。
〈他のようではありえない〉はそのようにして生まれる。
つまり元々は全く他なる者であったものが、全く他なる者であるがままに〈他のようではありえなく〉なるのである。それはもっと卑近な言い方に直せば〈他人事ではすまされない〉関係性といっていいだろう。
それはマルクスの価値形態論を分析した柄谷行人が「可能性の中心」と呼んでいるものに他ならない。
しかし、わたしはそれを「可能性の中心」とは呼ばないのである。
それはわたしにとって「不可能性の核心」としか呼びようのないものである。
他ならないからといってそれは同じであるということではない。
可能性にとっては、経済学的に、他ならぬものは同じものでありうる。
しかし不可能性にとっては、政治学的に、他ならぬものと同じものはどこまでも〈同じようではありえない〉のである。
可能性にとって、非他性は同一性の外輪にあってそれを外部から呪縛する。しかし不可能性にとっては非他性は同一性の内側をえぐり取り掻き毟って二度とふたたび元の同一性の中心には戻れない不可能性の核心に呪縛する。
〈他のようではありえない〉関係性は他者のみならず自己とも〈同じようではありえなく〉するのである。
だが、では一体何がこの〈同じようではありえない〉レヴィナスと埴谷雄高を〈他のようではありえない〉関係性に呪縛的に置き換え(交換)させてしまっているのか。
カントとドストエフスキーと強制収容所の凄絶な原体験の共通性――確かにそれは伝記的な事実によっても彼ら自身の書いたものを読んでもあからさまに分かることであって、そこからこの酷烈なまでの類似性、殆ど同一といってよい程に見分けのつかない表現の形成の要因を分析することができないわけではない。またそれは是非必要なことだし大いになされねばならない。
けれども、それはこの〈すべての牛を黒くする夜〉(ヘーゲルがシェリングの「同一性」の哲学を嘲笑した言葉)よりもどす黒過ぎる魔王の通り過ぎた過越しの跡の心に灼きつく余りにも生々しすぎる印象の由来のすべてを解明することにはならない。そんなものはただの「弁証法」でしかないのだ。
日本の思想史的文脈から行くと、埴谷雄高は九鬼周造の後に位置付けることができる。
埴谷の不可能性の文学は、既に九鬼周造が『文学概論』のなかで予言的に文学のあるべき理想の形として述べているものを忠実に実現しようとしたものである。
埴谷がレヴィナスと酷似しながら決定的に異なった方向に踏み出してゆくのは、彼が九鬼と同じように根本的に「様相」の美学者だからである。
九鬼は「偶然性の形而上学」を創造した。埴谷は更に突き進んで「不可能性の形而上学」の創造に赴く。それは九鬼のやり残した仕事を引き継ぐことだった。埴谷は九鬼について特に何も語っていないが、むしろそこにこそ埴谷のよく言う「精神のリレー」が見いだされねばならない。
九鬼は「様相」の問題と思想家の「態度」の問題を絡めて次のように書いている。
理論に実践に、常に必然性を把持する者は無を自覚することが少ないであろう。可能性の追求にのみ心を砕く者は単に「欠如」として概念的に無を知る場合が多いであろう。それに反して偶然性を目撃する官能を有つ者は無を原的に直観するのである。偶然に伴う驚異は、無を有の背景とし無より有への推移につき、有より無への推移につき、その理由の問われるとき、問そのものを動かす情緒である。偶然は無の可能性を意味する。不可能性を無の中核から拉し来って有に接触せしめる逆説を敢てするのも偶然性である。
(九鬼周造『偶然性の問題』第三章 離接的偶然 第一四節 有と無)
とすると、「偶然性の問題」の核心にあるのはむしろ「不可能性の問題」である。
しかし、九鬼は不可能性の思想家の態度については沈黙し、あくまで偶然性の思想家に留まろうとする。或る意味ではそれが九鬼の限界でありしかしまたその美徳である。
埴谷はまさに九鬼が書きえなかったその不可能性の思想家の態度を例えば次のように言い切っている。
不可能性の作家――。これは、不死の死とか、思惟の思惟、とかいつた種類の想念にも似たところの一種の暗示語であるだろう。私達は暗黒の夢を見つづけることができないごとく、事物に充たされていないところの空虚な内容を想像しつづけることもできない。そうとすれば、これまでも嘗てなく、また、これからも決してないだろうところの客観的な対応物をもたぬ或る種の事物を扱う不可能性の作家の想像力とは、いかなるものであろうか。
(「不可能性の作家」「文学界」昭和三五年一〇月号掲載)
文学は長いあいだ存在に対して真すぐ向いてきたが、怖しいことには、いまやついに存在が文学をとらえてしまうのつぴきならぬ世紀にはいつてきたと思われる。ブレイクやポオやドストエフスキイがふとかいま見ただけで前のめりになるほどの重荷を負わなければならなくなつたところの《のつぺらぼう》のかたちが、この世紀のあいだにどのような凄まじい徹底性をもつた広角度のヴィジョンのなかにどのような暗い巨大な翳となつてうつるのか、カフカやサルトルの数歩ふみこんだ努力にもかかわらず、いまだ予想しがたい。けれども、ただつぎのことだけは明らかである。そこには、まつたく新しい飛躍的な語法が必要であること。そしてまた、或る種の憤懣を含んだ絶望と自身の背後に沈むようにもんどりうつて闇のなかへ逆さまに倒れこむ勇気が必要であることも。
(「存在と非在とのつぺらぼう」「思想」昭和三三年七月号掲載)
埴谷のいう〈のっぺらぼう〉とはレヴィナスの〈非人称のイリヤ〉と厳密に一致するものである。そして九鬼が『偶然性の問題』のなかで敢えて口にしなかった恐るべき悪魔の名前である。
九鬼はいわば虚無の表層を擦めて存在の側に無の小さな断片を奪い去るだけであるが、埴谷はその恐るべき虚無の核心に向かって跳びこんでゆき無の可能性(偶然性)には決してなりえない不可能者を発見してしまったのだといえる。
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不可能性の問題1996年試論(4) 実体と様相の美学
http://novalis666.exblog.jp/1319301/
2005-03-30T22:26:58+09:00
2005-03-30T22:26:01+09:00
2005-03-30T22:26:01+09:00
novalis666
不可能性の問題
九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。
だが論述においては彼は不可能性から出発している。
不可能性の否定によって可能性が生まれる。可能性は生まれ落ちた一点から次第に成長して行く。そうして可能性増大の極限は必然性と一致する。次に必然性の否定が偶然性を産む。誕生の一点を起始として偶然性は次第に増加する。そうして偶然性増大の極限は不可能性と一致する。ここに可能性と偶然性の対立的関係、および偶然性と不可能性との近接関係が明かにされる。可能性が増大するに従って偶然性は減少し、偶然性が増大するに従って可能性は減少する。可能性増大の極は偶然性減少の極と一致する。それがすなわち必然性である。また偶然性増大の極は可能性減少の極と一致する。それが不可能性である。(ibid.)
しかし、この循環的生成論とは異なる様相の生成論を私は考えている。
九鬼の陰陽循環的様相変換論は四様相が季節の循環のようにグルグル入れ替わる対称的な回転理論である。
そして、その運動の原動力となるのは「否定」である。
だが、私は寧ろ元気の陰陽二気への根源的分裂に発する起点のある非対称的な様相の段階生成論を考えたい。
九鬼の四様相循環論は要するに四様相のすべてが初めから与えられてしまっていることを前提している。それが「否定」に媒介される円環運動になってしまっているのは、分化しきった太極という一者の完成した「存在」の内部に四様相が取り込まれて、その内的自己循環に馴致化され回路付けられてしまっているからである。
通常、論理学は真か偽かの二値論理である。これは存在か無か、肯定か否定かと言い換えても同じことである。
しかし様相論理はある命題が真か偽か、存在するかしないかを問うのではなく、それとは別問題にそれがどのような様相においてあるか、必然的か可能的か偶然的か不可能的かを問う四値論理である。
私はこの別問題であることをより極端に徹底させ、存在と様相を切り離す。そこで存在なき様相を純粋に考察しようとする場合、九鬼のように「存在」と「否定」という二値論理的な説明原理を持ち込んで、それに基づいて四様相の概念を解明することは許されない。
それは陰と陽であっても同じである。存在と無、肯定と否定、陽と陰、1と0は、いずれ変わらぬ二値論理でしかありえない。そもそもコンピュータの原案者ライプニッツがその基本観念を発想したのは中国の易の思想からであった。陰陽二気の易の哲学こそ世界最古のコンピュータ思想(二値的記号論理学)なのである。
九鬼の太極図形における陰(可能性)陽(偶然性)の二元の巴は、可能性が〈無〉、偶然性が〈存在〉(存在者)に当たるといえる。
偶然性は九鬼によれば「無の可能性」=「存在の偶然性」であり、可能性は「存在の可能性」=「無の偶然性」である。
そして、この両者は一方が他方を持ちつ凭れつに支え合う相関関係にあるのだ。
しかし、これに原分割を与えているのは老陽-老陰にあたる陰陽の巴の境界面(不可能性-必然性)の亀裂である。この分裂線はそれ自体、存在と無の二値論理に還元不能な様相としての様相の自立性としてある。
私が根本様相としての不可能性と呼ぶのはこの根源的な分裂線のことである。九鬼はそれを「原始偶然」と呼ぶが、私はそれを「根源的不可能性の美」と呼ぶのである。
だが、忘れてはいけないのは、九鬼の必然性批判は実際には戦略的な擬態であるに過ぎないのだということである。
彼が「偶然性」として言わんとしていたのは「存在」にも「無」にも還元できない形而上の「美」のことである。
その点において私はこの素晴らしい哲学者・九鬼周造に心から共感する。
形而上学は「様相を呈する学」としての美学でなければならない。それを妨害する存在論の「であるはずだ」や倫理学の「ねばならない」に対して、それとは違った美しい必然性を、即ち運命としての必然性をつきつけてやりたかっただけなのである。
これは九鬼が批判しているオスカー・ベッカーについても言える。彼はハイデガーの高弟の一人だが、花の「美」を侮蔑するヘーゲルやハイデガーの「無」や「存在論的差異」に対して、美しい「実体」の観念を守らねばならないという立場からプラトン的イデアにおける「パラ存在論的無差異」の思想を展開している。
この必然性の美学者は「存在(実存)」という「価値」に対して「実体」という「価値」を復活させることこそが必要なのだと説いている。
プラトン的イデアは存在論的差異に対立するものである。いわゆる「現実性」に関するイデアの問題点は、その概念構成の全体からして最深部で存在の「鋭さ」、すなわち事実的なものの固さを、計算に入れることができないところにある。他の面では、この「現実性」から、またその最奥の根拠である「存在」からしては、それは捕らえられず、また反駁もできない。いかに強力ではあっても、存在がありのままの実体を害することは決してない。無は存在に対して何もなしえないからであり、その永遠の処女性には触れえない。それは現れることで喜びを与え、またその現れの退潮は、「地上の美の喪失」ではあってもそれ自体には影響しない。それは、永遠に回帰可能な可能性に留まる。その中には、存在の灰白色の堅苦しさとは対照的に、実体の与える慰めがある。かくして我々は、これと密接に関係する問いかけをもって結びたい。人間は、「存在の牧人」であるより前に、実体の番人であるのではなかろうか。
(オスカー・ベッカー「プラトンのイデアと存在論的差異」1963『ピュタゴラスの現代性』中村清訳 工作舎 一九九二年)
ベッカーの言わんとするところは非常に分かりやすい。「実体」の概念は存在論的なものであるというよりも寧ろ美学的なものなのである。
だが、それは何もプラトン的イデアにおいてそうだというよりも、それを批判したアリストテレスにおいてそうだったのではないかと私は考える。
アリストテレスにとって「実体」は「個物」において見い出されたそのありのままの美しさであったのではないか。彼はその「美」を「神」と呼んでいた。私はアリストテレスを可能性の形而上学者として批判するつもりだが、しかし、それはアリストテレスが「実体=個物」に見いだした「美しい神」を再発見したいからである。
近年、ハイデガー批判というと何故か専らレヴィナスの倫理主義ばかりが取沙汰されやすい。
しかし、私の考えではレヴィナス流の倫理主義は日本人には受け易いからこそ却って有害なものに転化してしまいかねないという危惧をもっている。
「存在」という価値が権力であるといって「他者」という価値に乗り換えても何も解決しない。それどころか日本にはレヴィナスの「他者」以前に先在する別の「他者」がいるのである。この別の「他者」を退治しない限り、レヴィナスの「他者」は空念仏にされてしまうだけだ。
むしろ我々は九鬼やベッカーのような「様相」の美学者(彼らのハイデガー批判の方が実は私たちのためになる)を評価するべきであり、「実体」の思想を復活させる必要がある。「実体」のない「他者」の話などお断りである。
この「実体」のない「他者」は「別人」である。
私はレヴィナスのいう「他者の〈顔〉」を〈顔〉というよりも「真面目」・「表情」・「様相」という語で考え直したい。
それは倫理学的な概念というよりは美学的な概念である。
このように言い直すのは「他者」と「別人」を区別するために必要な措置である。「別人」は「不面目」で「無表情」で「無様」である。それは冷笑的で厭味なものである。
日本の「別人」においては、レヴィナスの言う〈イリヤ〉はそのような〈顔〉をもち、まさに「他者」において不断に露出しているのだ。]]>
不可能性の問題1996年試論(3) 自同律の考究
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2005-03-30T22:16:45+09:00
2005-03-30T22:25:02+09:00
2005-03-30T22:15:47+09:00
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不可能性の問題
さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。
しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。 「同じである」「一つである」――それが思考の最初の直観的な純粋経験である。すなわち同一性の純粋経験こそが思考主体の最初の認識であり自己確認であり自己定位なのである。
自己・実体・存在という基本的な観念はこの「同じにして一つである」という根本体験から確かに直接的に推論される。
自己とは「同じにして一つであるもの」のことであり、実体とは「同じにして一つであるもの」のどのようであるか(様態)であり、存在とは「同じにして一つであること」のその「あること」そのことである。
すなわち同一性というのは、〈自己は実体として存在する〉(平たくいえば〈私は実体である〉、また別の仕方でいえば〈自己は実体を存在する〉)という観念的で内的な経験なのである。
〈自己〉の観念は同一性の主語にして主体である。同一性から直接的に推論される同一者、または自同律から直接的に推論される自同者の観念を捉えなおしたときに、それは〈自己〉と呼ばれるのだといってよい。
しかし、このような〈自己〉の観念は、例えば〈この私〉というような具体的実存的な事実存在に一次的には起源していない。
〈自己〉(「私」一般)と〈この私〉は異なる。この差異は極めて気づきにくいが、確かにそれはある。それは例えば柄谷行人が『探究II』において問題にしている〈単独性〉或いは〈この性〉の問題に触れている。
私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。
柄谷行人『探究II』「第一章 単独性と特殊性」
講談社学術文庫p19
ところで、〈この私〉は偶然的存在である。「真理」と明証的に表裏一体となっている〈自己〉(同一者)と〈この私〉が異なるとすれば、偶然的存在である〈この私〉の真理性はどうなってしまうのか?
実は、九鬼が「必然性」を批判するのは、それが彼にとって「同一性」及び「一者」(to hen )の様相を意味したからである。これに対して彼が「偶然性」の様相を重視するのは、彼がそこにおいて、同一性には還元不可能な、一者と他者の二元的邂逅を見出してしていたからに他ならない。
偶然性の核心的意味は「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅である。我々は偶然性を定義して「独立なる二元の邂逅」ということができるであろう。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五 『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店p120
しかし、私は「必然性」を同一性の様相であるとは考えない。むしろそのように考えることこそ、不用意に同一性を必然化してしまうことなのである。アリストテレスの基本的な表現法では「必然性」は〈他のようではありえない〉という仕方で実は〈他〉を含んでいる。「必然性」は同一性というよりはむしろ「非他性」である。
つまり、まさに必然性こそが「一者と他者の二元的な邂逅の様相」なのである。しかもそれは決して同一性に内面化することのできないような他者との邂逅(=分裂)の様相なのである。同一性は必然性に突き放されることによって生じる。しかし、それは同一性が必然的であるということではない。
むしろ逆である。同一性は確かにそれによって例えば自同律というような仕方で己れを必然化し第一原理化するだろう。そこからまた「存在」の観念が起源しさえするだろう。ヌースがアナンケを説き伏せるというあのいやらしい詐術がそこで行われてしまうのだ。しかし、同一性は決して必然性(非他性、他の不可能性という意味においての)を内面化などなしえていない。
九鬼は偶然性を遭遇性であると同時に偶数性であるとしている。
偶然の「偶」は双、対、並、合の意である。「遇」と同義で遇うことを意味している。
九鬼周造『偶然性の問題』二・一五『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店 p120
そして、その偶数性・遭遇性の意味は、「存在と無」または「存在と非在」の二者の根源的二元論であり、この二者の遭遇のことである。そもそも『偶然性の問題』の開巻冒頭で九鬼は次のように宣言している。
偶然性とは必然性の否定である、必然性とは必ず然か有ることを意味する。すなわち、存在が何等かの意味で自己のうちに根拠を有っていることである。偶然とは偶々然か有るの意で、存在が自己のうちに十分の根拠を有っていないことである。すなわち、否定を含んだ存在、無いことの出来る存在である。換言すれば偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無の接触相に介在する極限的存在である。存在が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。偶然性にあって、存在は無に直面している。然るに、存在を越えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが形而上学の核心的意味である。
九鬼周造『偶然性の問題』序説『九鬼周造全集第二巻』
岩波書店 p9)
しかし、この九鬼の立場を徹底すれば、必然性においてこそ存在と非在の双方に還元不可能な分裂の様相を観測しなければおかしい。必然性こそが九鬼の言うような意味での真に根本的な形而上学的偶然性なのだ。必然性は自己のうちに根拠などもっていない。自己の概念は存在と同様に自同律に根付いている。われわれの思考の習性は自同律を安易に必然的な思考の第一原理であると考えてしまう。だが、そこにはそのように考えさせる外的な強制力が働いている。この強制力が自同律を必然化し、思考を自己や存在から脱出不可能な様態に呪縛している。
必然性は他者の不可能性としての非他性である。非他性は同一性と同じではない。また、同一性に根拠を与えるものでもありえない。私は同一性と必然性を切断する。それは「存在なき純粋様相」の概念を凝視し考察しようとすることと別ではない。
わたしの考えでは、自同律は必然的ではなく、偶然的なものであって、思考の真の第一原理であるとはいえないものである。むしろ必然的なのは矛盾律の方である。生成順序として、まず矛盾律があり、排中律がある。自同律はその後にやっとこの二つに導かれて生成するものでしかない。
同様に「自己」や「存在」の観念もこの自同律の思想から生み出された効果でしかありえないので、何ら必然的なものであるとはいえない。
われわれを自同律や自己や存在から抜け出せなくしている黒幕は実は「可能性」である。ベルグソンは目は物を見るための器官であると同時に見ることの障害でもあるということを言っているが、「可能性」という様相はそれとちょうど同じ機能を果たしている。
われわれは「可能性の内」(in possibility)に思考の動く幅を前もって制限的に規定され、いわば前置=前提(preposition)され、そこに捕え込まれてしまっている。そこでこの「可能性の内」(in possibility)――むしろ「内可能性」(in-possibility)は可能性からの脱出不可能性という意味において、駄洒落でも何でもなく、一種の逆説的な意味における不可能性(impossibility)として反転的に機能してしまう。
しかし、この意味における可能性からの脱出不可能性は、可能性という様相の奇妙な否定的裏面であって、私が「不可能性そのもの」すなわち「不可能性自体」として考察しようとしている、可能性によって否定されることによって「不可能性」と名づけられてしまっている、恐らく本来はむしろ全く無名の様相とは別である。
また、この可能性からの脱出不可能性は必然的な様相を確かに呈するものではあるが、必然性そのものともやはり別のものである。
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不可能性の問題1996年試論(2) 可能性の形而上学と九鬼周造「偶然性の問題」
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2005-03-30T22:10:35+09:00
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2005-03-30T22:09:37+09:00
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不可能性の問題
不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。
この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in-possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。
「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。
しかし、それは実際には無根拠である。様相論理学において四様相性のどれを根本様相として選択するのかは単なる「趣味」の問題でしかない。可能性・不可能性・必然性・偶然性はどれも権利上は平等である。どれを根本様相としても、四様相性相互の規定関係は形式的に不動である。
現代の様相論理学は不可能性(ありえない)と否定性(ない)の区別の上に成り立っている。それは「様相」の問題と「存在」の問題とを切り離すことと別ではない。
したがって、「存在なき純粋様相」を考えることが出来るのである。このことを言い換えるならば、現代の様相論理学は「存在なき純粋様相」の形而上学を逆に要請しており、それなくしては成立しえなかったのだということができる。
九鬼周造はそのことを逆手にとって偶然性を根本様相とする偶然性の形而上学を創造しようとした哲学者である。彼は『偶然性の問題』になかで実際に偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。それは九鬼の生き方の美学(趣味)から来る、「必然性の形而上学」に対する感性的な反発からである。九鬼の「偶然性の形而上学」は「偶然性の美学」に根差している。
しかし、私はこの九鬼の様相性の解釈にも偶然論にも実は賛成できない。
様相論においては、むしろ私は不可能性を根本様相として見る方が正しいと考えている。だが、それは『偶然性の問題』になかで九鬼に批判されている現代記号様相論理学の草分け的存在C・I・ルイスとは恐らく全く違った動機においてそう考えるのである。ルイスは不可能性を根本様相として考えている。私はルイスの見解を支持したい。
ルイスの様相論では単なる否定(negation)と不可能性(impossibility)が区別されている。それはいわば無を存在論的否定性と様相論的否定性に区別することである。他の様相性を根本様相と考える立場では、この区別は出てこない。
不可能性と否定性の区別は抹消され、不可能性は否定性に還元されてしまう。それは言い換えるなら、様相の次元のそれ自体としての自立性を、つまり様相論それ自体を存在論に還元してしまうことである。それは不可能性を無能力化=不能化(impotentialize)することである。不可能性を不能化することは、様相論を潜勢化することでも現勢化することでも完成させること(完全に実現すること)でもなくて、単にそれを去勢すること、骨抜きにしてしまうことでしかない。
ルイスは、否定性には還元しえない不可能性、そしてまた、可能性の否定としての非可能性(あるいは否可能性)ではないような不可能性、すなわち、否定性にも可能性にも還元不可能な、それ自体としての不可能性、いわば〈不可能性自体〉ともいうべきものを発見している。
しかし、ルイスが不可能性において本当に発見したのは様相性そのものである。不可能性とは様相性それ自体のことであり、単に四様相性(全体)の四分の一の様相(部分・構成要素・離接肢)であるだけではなくて、その四様相性全体のもつ有機的で相互否定的規定関係(構造・形式・枠組)なのである。そのことこそが様相論理学において重要なのであって、何が根本様相であるかは実はどうでもいいことなのである。◇だろうと□だろうと好きな記号を様相性を表す様相記号とし、それに可能性だろうと必然性だろうと偶然性だろうと不可能性だろうと四つ組の中から任意に選んだ名前をつけてやれば、お気に入りの様相論理学が出来上がるだけの話なのである。つまり、何とでも好きにすればいいのだ!
例えば、様相性の記号を◆とし、否定を~、命題をp表す。◆には、可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれを代入してもよい。
すると、
◆p
~◆p
◆~p
~◆~p
の四つの様相式が出来上がり、それぞれが可能性・不可能性・必然性・偶然性のどれかを意味する。この時点では、どれがどれでであるのかはまだ決定していない。事態は流動的である。
しかし、ここでどれか一つを固定すれば、残りは自動的にその名が決まる。この固定化をもたらす固定性は、四様相性にとって外部的・超越的である。しかし、それは四様相性を決定的に創造する。決定不能のものが決定される。それは裏返せばその瞬間、どれか一つを特権的様相とする「神の創造」が行われるということだ。神が創造するというより、それは神が創造される瞬間なのである。
そのとき、「排除と選別」が決定的に起こる。柄谷行人風に(すなわちクリプキ&マルクス風に)言うなら「暗闇の中での命懸けの跳躍」が起こるのである。このとき、四様相性は、その四人のうちの誰か一人に代表され、そいつに永遠に仕切られる羽目になる。
しかし、問題は、それで他のようで有り得る可能性(すなわち偶然性)を実は排除できないということなのだ。そして、むしろここにこそ本当の意味での還元不可能な「偶然性の問題」が見出されねばならないのである。
さて、マラルメは言っている――
骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき。
ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』 秋山澄夫訳
思潮社 1991年
* * *
ところで、「◆p」「~◆p」「◆~p」「~◆~p」の四様相性は、「p」「~p」の双対で表される二項対立的で二値的な「存在/無」(或いは「真/偽」)の二様相性とは別個の水準にあるものと考えられる。二項対立的=二値的な二様相性は四様相性とは次元を異にしている。二様相性の二値論理空間からは様相性◆それ自体が実は追放(第三項排除)されてしまっている。その枠組のなかでは四様相性について考えることがそもそも全く不可能なのである。
これを不可能にしているのは「否定」である。
否定は、様相を排除し否定し追放している。いわば二つの次元を切断している。しかし、そのことによって否定は自分自身をも双面に切断している。単なる否定でしかない無と、否定の様相として何かそれとは違った顔をした無とに引き裂かれている。否定のもつ単に「無い」というのとは別の意味、それとは違う位相で違った意味をもってしまうということ、否定にはいつもその他立ないしは異定立(Heterothesis)の作用が伴ってしまうということ、そして、否定はその己れ自身であるところの他者を決して消し去ることが出来ないということ、それこそが問題なのだ。
単に何が根本様相の「真」の名称であるかが問題なのではない。問題は、四様相性がそのような「真/偽」をもはや問えないような次元に成り立ってしまうということにある。「真/偽」とは言うまでもなく「存在/無」の二元論にパラレルなものであり、したがって既にそれ自体が二値的な、すなわち二項対立の呪縛に囚われた「否定」的発想でしかない。
「真か偽か」或いは「存在か無か」をもはや問えないような次元に、そんなことには全く関わりなく四様相性の四位一体構造は成立している。このようなものが純粋に構造的に成り立ってしまっているということ、このような存在から全く独立した純粋様相空間としかいえないような次元に、実に不可思議に浮いている純粋に抽象的な四様相性の四位一体構造の成立と構成をわれわれが考えざるを得ないということこそが問題なのだ。
そして、更に一層踏み込んで言うなら、可能性・不可能性・必然性・偶然性の四様相性と存在・無の二様相性とは、その「様相」がまるで違っているということこそ、もっと重要な問題なのである。四様相性と二様相性は同一平面上に並記することはできない。これらは互いに異次元にあるのであって、九鬼がルイス、そしてルイスを批判して必然性を根本様相としたオスカー・ベッカーと同様の愚を犯して、四様相性と二様相性を単純加算して合計六様相にしてしまうことはできないのである(むしろ両者の位相差は交錯的なのだから乗法的にみて、八様相を考えるべきだろう。)それは否定性と不可能性がまるで違った意味をもった否定性だからである。
九鬼はこのことの意味を真には理解していないように見える。単に皮相に表層的に瑣末的に何が根本様相であるかの名辞(呼称)にこだわり、誰が(どの様相概念が)一等賞(根本様相)であるかの莫迦気た論争を行っているに過ぎない。
私がルイスを支持したいのは、単に二項対立的に偶然性を必然性の否定概念として考えている九鬼よりも、否定自体を単なる否定と不可能性の二相に切断することによって様相空間そのものを創造したルイスの方が、様相性の何たるかを恐らくよく理解していたのではないかと思われるからである。このような犀利さは、必然性などを持ち出して様相論を分かりやすく改良してしまったオスカー・ベッカーにも、偶然性などを持ち出して様相論を親しみやすくしてしまった九鬼にも見ることができない。彼らは単に様相を自明視ししてしまっているだけである。すなわち、そもそも様相とは何かという問いの場処を塞いでしまっているだけなのだ。
何が根本様相であるかというような言い争いは実際には餓鬼の喧嘩と大して変わるものではない。九鬼はそのような意味ではそこで非常に愚かしいことをわめいているだけなのである。どうしても偶然性が根本様相でなければならないいわれはどこにもない。何だっていいのである。彼は「偶然性の形而上学」があったていいじゃないかという以上のことは何も言えない。勿論その通りなのだ。あったていい。しかし、それは同時に「可能性の形而上学」「不可能性の形而上学」「必然性の形而上学」をも同時に肯定することでなければおかしい。
しかし、九鬼は実はそれほどひどい莫迦ではないのであって、実のところは、ことによると、そのことはよくよく承知した上で敢えて「偶然性の問題」を主張したのではないかとも思われる節がある。それは九鬼の目には西欧形而上学がもっぱら「必然性の形而上学」によって呪縛された思考であると映ったからである。
だが、この言い方は本当は正確ではない。彼が反発していたのは「必然性」に対してではない。むしろ「存在」や「自己同一性」という「価値」の自明視に対してである。]]>
不可能性の問題1996年試論(1) 有難迷惑な存在論と出来損ないの倫理学のみにくい教え
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2005-03-30T22:05:55+09:00
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不可能性の問題
しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。
「有難迷惑論」は、「存在/無」の述語的二値論理に呪縛されており、「出来損ない論」は「自己/他者」の主語的二値論理に呪縛されている。それがもたらす思想的弊害は非常に大きいと言わなければならない。とくに「主体の主体性の確立」という私たちの生存にかかわるとても重要な問題が破壊され損傷されてしまうのである。
「真」を振りかざす「存在論」は、主体の主体性を「自己同一性」と混同し、それを結局は「存在困難性(有難性)」という「混迷と矛盾(迷惑性)」のうちに見失ってしまう。これが有難迷惑的ということである(存在困難昏迷性)。この例として、わたしは特に日本型ハイデガー主義を糾弾する。
「善」を振りかざす「倫理学」は、主体の主体性を「自己関係性」と混同し、それを結局は「自己出来損傷性」(自虐的感傷性)という「自縄自縛」(自己繋縛)のうちに閉塞させてしまう。これが出来損ない的ということである(不出来自壊性)。この例として、わたしは特に日本型レヴィナス主義を糾弾する。
ここに二つのタイプの不可能性が捏造されていることに注意を喚起したい。「存在困難性」と「自己出来損傷性」がそれである。これはいずれにせよ、感傷主義でありペシミズムである。
このような不可能性をわたしはフランツ・カフカに敬意を表しつつその名に因んで「可不可性」或いは「過負荷性」と呼びたい。それは、「不可なる可し」という「過負荷」な抑圧によって、主体の主体性の確立を結局陰険に妨害するだけの制限主義的な態度である。ここに「可不可性」或いは「過負荷性」というのは、要するに「無能性」のことである。
「存在論」にせよ「倫理学」にせよ、主体の主体性を無能性の烙印を押された去勢されたものにしかしない。いずれにしても主体は「空しいもの」「虚ろなもの」にされてしまうだけである。
するとそこに常につけこむのは「宗教」である。私はこの「宗教」を出口王仁三郎に敬意を表しつつ彼の言い方を借りて「醜教」と呼びたい。それは実にみにくい教えであるからだ。
私はこれに対して美しい学としての「美学」を提唱したい。それは「不可能性の美学」であり、「無能性の醜教」に敵対するものである。
「真」を振りかざす「存在論」、「善」を振りかざす「倫理学」、このいずれの考え方も病んでいる。病んだ思考からは、病んで瀕死の重体となった主体性、或いは魂の抜け殻の全く空しい主体性しか構想されるわけがない。
しかし、主体の主体性の確立の問題は、「自己同一性」(同一性・存在)の問題でもなければ、「自己関係性」(関係性・倫理)の問題でもない。それはむしろ「自己表現性」(様相・態度)の問題において見い出されねばならない。すなわち、「真」でもなく「善」でもなく、なによりもまず「美」の問題としてそれは考察されなければならない。
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