美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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カテゴリ:不可能性の問題( 9 )

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 〈私という現象〉というのは悪しき水泡(バブル)である。
 そこで人は〈胎児〉のように膝を抱き狭き自らに見入るだけだ。
 これが要するに「対自=向自(pour-soi)」であり、普通の意味での〈意識〉である。

 〈私という現象〉はいわば〈悪夢〉であり、柄谷行人の埴谷雄高論のタイトルを借りていうなら〈夢の呪縛〉である。レヴィナスはそれを〈自己繋縛〉といい、ベイトソンは〈二重拘束〉といったが、いずれにせよそれは同じものを意味している。それは〈私〉という観念の罠であり、私はこの〈私〉を振り解くことができないのである。

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by novalis666 | 2005-03-31 01:24 | 不可能性の問題
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 存在は二重否定(無くは無いこと/非無)である。
 それは無の無への折り返し、否定が否定に重なって根源的自己否定と化するその破壊的で危機的な一点から湧出する。

 存在とはこの折り返された無の襞であり、否定の自家受精から単性生殖して無を母胎としそこに着床し、胎盤(影ないし分身)を形成しつつ無から分化してくる眠れる胎児のごとき何かである。
 この胎児は無によって魘される。

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by novalis666 | 2005-03-31 01:18 | 不可能性の問題
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 論理学の第一原理として自同律A=Aはそれを拒むことが不可能な、必然的なものであり、従って思考が必ずそこから出発しなければならない第一のもの、そしてまた単純で自明な物の道理であり、絶対的に疑い得ないものであると信じ込まれている。それは絶対的真理であり、あらゆる真理の第一根拠であると思われている。つまりそれはそれ以前に溯り得ないという意味において思考をその出発点において呪縛する思考のアルケーであると信じられている。だがそれは本当にそうなのだろうか。

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by novalis666 | 2005-03-31 01:10 | 不可能性の問題
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 九鬼は偶然性を存在の内なる「無の可能性」と考えている。つまり存在は「必然的に在る」のではなくて「無いこともありうる」ものとして在る――それが偶然的存在の意味である。

 偶然的存在とは、不可能的現実存在と現実的不可能存在(この二つは殆ど同じ意味領域に重なるが、その間に微妙なニュアンスのずれを含む同義語である)のあるかなしかのゆらぎの合間に微妙な浮力をもって咲く虚幻の〈無〉の可憐な花である。

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by novalis666 | 2005-03-31 00:16 | 不可能性の問題
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 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。

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by novalis666 | 2005-03-31 00:10 | 不可能性の問題
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 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。

 だが論述においては彼は不可能性から出発している。

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by novalis666 | 2005-03-30 22:26 | 不可能性の問題
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 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

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by novalis666 | 2005-03-30 22:16 | 不可能性の問題
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 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in-possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

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by novalis666 | 2005-03-30 22:10 | 不可能性の問題
 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

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by novalis666 | 2005-03-30 22:05 | 不可能性の問題