美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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カテゴリ:考察( 14 )


XI 風の種子




 風は風媒し、花粉/差異を運搬する(種差=運搬 diaphora)。

 〈花粉 Biütenstanb〉とはノヴァーリスにおいて、霊感を帯び炸裂した天才の思考の断片=断章を意味している。NOVALISとは、〈種蒔く人〉を意味する、フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの筆名である。

  *  *  *

 〈友よ、大地は貧しい。ほんのわずかな収穫を得んがためにも、われわれはたくさん種子を蒔かねばならぬ。/[銘]〉

 〈接触のたびごとにひとつの実体がうまれ、接触がつづくかぎりその作用もつづく。これが、個体のあらゆる綜合的変化の基礎である。もっとも、一方的な接触と相互的接触がある。前者が後者の基礎になっている。/[89]〉
(前田敬作訳 現代思潮社古典文庫『日記・花粉』「花粉」)


  *  *  *

 ノヴァーリスは〈接触〉という語で、ドゥルーズ&スピノザが〈触発=様態変様〉(affectio)として語ったことと同じことを言おうとしている。
 純粋な出来事としての風は、差異の種子である花粉=火種を運搬する。それはどこからともなく漂い寄せる、〈実体〉から切り離された差異の分子である。

 差異は風のなかで漂泊=彷徨し、その接触によって個体を触発して綜合的に変化させる。それが〈実体〉の生成である。いわばそれは触発する差異であるといえる。しかし、この差異は根本的には破壊的で炸裂的なものである。それは個体の実体的同一性を深刻な危機に晒す。

 花粉は異性的で生殖的である。それは同一体に取り込まれ、孕まれるときに〈同〉のなかの〈他〉として〈実体〉へと結実する。或いは、取り込むものが基体=基盤としての質料であるとすれば、ここで差異は形相として働き、個別的具体的な〈実体〉を誕生させるといってよい。
 しかし、この場合、自己実現するものは〈同〉ではなく〈他〉であり、差異であり、形相である。
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by novalis666 | 2005-02-01 05:47 | 考察

XII 風の火種


    

 しかし、差異の種子は、時として災厄の火粉である場合がある。それは破壊的に働く。デリダは、差異のこの同一性を破壊する側面を〈毒薬〉として考察している(「プラトンのパルマケイアー」など)。

 災厄の火粉は、質料そのものをその爆発的結合の刹那に焼尽くしてしまうような破壊的な形相である。このとき、〈実体〉は通常の意味においては生まれ得ない。
 形相と質料が、その耐え難い異和的接触、ないし〈破壊=触発〉によって対消滅してしまうような爆発がありうる。それはある種の超新星爆発(NOVA)であり、災厄としての災厄の成就である。

 〈破壊=触発〉、或いは破壊触発はドゥルーズ&スピノザの〈触発=様態変様〉(affectio)の極限の姿である。否、むしろ、〈触発=様態変様〉の根底、その核心にあるのは、この風の根源的暴風性であるその破壊性に他ならない。いかなる微風のうちにも風自体の爆発性である破壊触発の凄まじい力は潜んでいる。否、むしろそれを見出さねばならないのだ。

 破壊=触発、いやむしろ、触発=破壊、触発とは破壊なのである。

 破壊触発は、質料を乗り越えるような強大で極限的な異化作用である場合がある。無論、この場合、質料がどのような様態(ラテン的概念modusにおいてではなく、ギリシア的概念pathosの意味において)にあるのかが考えられねばならない。

 通常、質料は、或る程度形成された様態にある。したがって、質料のなかには既に何らかの形相が先在している。破壊触発は、この先着している形相と、後から風に乗って到来した別の形相の間の矛盾・衝突という風に考えられる。形相と形相は融和せず相克する。多くの場合、先着者が自己維持して後からやってきたものを弾き出す。しかし、この逆もありうる。また、別の場合も考えられる。まず個体に分裂を引き起こす場合が考えられる。更にまた、同一質料のなかに、引き離された状態で、相異なる形相が混在雑居する場合もあるだろう。

 そして、純粋状態の、全く形相を含まない質料、いわゆる第一質料の場合をも考えておかねばならない。しかし、そのような場合にも、奇妙な言い方になるが、質料の形相というものが考えられうる。
 アリストテレスがそのようなものを認めていたかどうかは今は問題にしない。ただ、恐らく、形相/質料という概念対は、不可避的に一方が他方を必要としてしまう概念の組であって、それを無理に引き離そうとすると、極限的には双方無限背進に陥るような危うさをもっている。

 そこで、恐らく純粋質料においても、それを規定する形相というものが想定されうるので、やはり、その場合においても、純粋質料に最初の形相として到来した形相と、純粋質料をして純粋質料以外の何者でもないものたらしめていた形相、いわば〈無〉の形相との間で矛盾相克が生じうるのだと考えられてよい。いや、恐らくその場合においてこそ、むしろ最も苛烈で深刻な相克、いわば〈存在〉と〈無〉の火花を散らす凄まじい衝突が起きるのだ、と考えねばならない。

 そして、翻ってまたまたわれわれは、いかなる質料のうちにも決して宿ることのない形相、あるいは決して宿りえぬような形相、純粋形相とよぶべき形相をも想定することができる。
 しかし、この想定は、形相をイデア的な自体性に差し戻すプラトン的観念論とは別の方位を目指している想定である。
 すなわち、この場合でも、純粋質料についての想定(例えばレヴィナスのイポスターズ論を想起せよ)と全く同じように、その質料なき純粋形相をそれにもかかわらずそのように成り立たせている質料的なものを、われわれはなお、それを思念のなかに召喚する際に必然的に要請せざるを得ないからである。

 何故、純粋形相は思念のなかへと到来するのか?
 そして、それは質料ではないとすれば、それとは似て非なるいかなるものから出来ているのか?
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by novalis666 | 2005-02-01 04:48 | 考察

XⅢ 風の痕跡


    

 高橋順一は、『始源のトポス』(エスエル出版会1986)のなかで、同一性の成立それ自体のうちに、不可避的にそれを抉るような、同一性には還元できない〈無〉への「媒介」の「始源的異化」の痕跡が孕まれてしまっていることを指摘している。
 これはわれわれの文脈でいう、風の風媒の漂流=彷徨とそれが破壊触発する存在論的災厄の火傷に該当するものである。

 高橋のいう〈媒介〉は、通常のヘーゲル主義がいうような止揚された同一性へと媒介するような媒介でもなければ、何らかの身元の割れた同一者の自己に遡及できるような媒介でもない。
 ヘーゲル主義の場合、媒介は他への媒介といわれるけれども、それは同一性へと回収可能な媒介であって、結局のところ自己への媒介を意味するに過ぎない。媒介は他を止揚することである。これは止揚的媒介であり、要するに媒介=同一性(同質性)なのである。
 しかし、高橋は、〈同〉に止揚不可能な異他性ないし異質性からの媒介について語ろうとしている。それは他〈への〉媒介ではなくて、他〈からの〉触発的媒介であるといっていい。
 自己または〈同〉は、この根源的他性を同化=止揚することはできない。おそらくただ排除することができるだけだ。しかしむしろ逆に自己または〈同〉の方こそが、根源的他性から排除され切り離されるという受動性によらなければ成立しえないのである。

 根源的なパッシヴィテ、受動性・受難性・情態性というべきパトスの様態がどうしても存在することの基底には、風の掻爬の痕跡として、或いは、燔祭の黒き精神外傷として、烙印のように焼きついている。

 これはどういうことか。――存在なき受動性としてのパッセが、通過とも過去とも受動とも消極ともいいがたいパトスとして、すなわち〈純粋様相〉としか言い得ないような何かが、時間と存在に先立つ出来事としてある、ということだ。
 おそらくそれは、出来事それ自身における根源的な分極化の運動を暗示している。

 パトスとトポスへの分極。一方は消極してゆき、もう一方は積極してゆくような陰陽の切断だ。それは陰極(-)と陽極(+)へと〈道〉という風の通行が起きて、ゼロの太極が生成し分化する運動であるといってよい。

 わたしは思わぬところで中国古代哲学のヴィジョンの驚くべき鋭さを再発見することになってしまった。
 しかし、このことは些かも「東洋回帰」などという、わたしが最も軽蔑しまた警戒するあの蒙昧主義を意味するものではない。わたしは東西の分裂を統合しつつ異化的に〈今ここ〉〈この私〉において創造しているからである。むしろ、このように語ることによって、東洋の曖昧で愚かな形而上学の徹底的な批判が開始するのだ。わたしは東洋の精神的独自性だの文化的優位性だのといった世迷いごとを如何にも言いたげにしているみにくい思想の顔が嫌いだ。
 わたしは日本人でもユダヤ人でもギリシア人でも中国人でもインド人でもアラブ人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でもありたくない。そんな奴らなどくたばれ!と思っているのである。
 むしろわたしは地球人であり、そして、そうであるよりもむしろ一個の〈宇宙人〉である。
 そして、この〈宇宙人〉こそ、わたしが見出すべき〈この私〉の究極の姿でなければならない。

 何故というに、宇宙的(universal)であるとはとりもなおさず普遍的であるということを意味するからであり、そしてこの宇宙性=普遍性のただなかにおいてしか、単独的な〈この私〉は見出され得ないが故に。

 単独的な実存〈この私〉を柄谷行人は社会性としての普遍性において捉えようとした。だが、それは片手落ちでありまた不徹底であるとわたしは考える。

 普遍性は社会性などよりもはるかに貧しい宇宙性のなかにこそ見いだされねばならない。宇宙性とはもはや独我論すら成り立ち得ないような徹底的な孤独、ついには自己同一性の自己崩壊にまで到るような厳格な破壊の孤独の中に見出されなければ全く意味がないし、そして単に空虚なだけだからだ。
 宇宙の中に身を置くことは端的に破滅である。しかし破滅しないものにどうして〈超人〉を、すなわち、一個の単純な人間を見出すことができるというのか。

 厳密にニーチェ的な意味における〈超人〉とはこの〈宇宙人〉としての〈この私〉のことである。
 わたしは、全てが覆り滅び去った後、再び舞い戻ってきてしまった軸の時代の思想家として、己れをこの宇宙の極としての〈この私〉の上に回転させなければならない。
 美しいものは星座である。わたしは双眸を大きく瞠り、大宇宙の荘厳のなかで最初に思考したであろうシュメールのマギの末裔としてのみ己れをアイデンティファイするであろう。

 しかし、この〈この私〉は、ただ宇宙のなかにそれを見出したという状態だけであるなら、それは未だに死んでいる。そして大宇宙は暗く、天に一個の星座も無い。
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by novalis666 | 2005-02-01 03:51 | 考察

XⅣ 風の炎上




 差異――むしろ爆発的な、核爆弾のような差異としての差異がある。破壊触発の極限において、差異は同一性の破壊であるばかりか、差異であることそのものへの破壊ですらあることだろう。
 何もかもをぶち壊しにするような純粋な差異は、恐らく〈出来事〉としかいえない。それは炸裂し、吹っ飛んでしまう。後には痕跡というより地をえぐる爪痕のように凄まじい重症しか残らない。ただブラックホールしか残さないような最も野蛮で凶変的な差異というものがある。

 それは野獣的だ。脳髄を破壊し、理性の箍を吹き飛ばしてしまう〈叫び〉としてしかありえないような〈ありえない差異〉というのがある。

 この最大級の差異のことをブランショは〈災厄〉と呼んでいる。わたしの考えでは、この〈災厄〉はレヴィナスが自分の〈イリヤ〉に引き寄せてそれと同一視しているような程度のものと恐らく違っている。

 ブランショが〈災厄〉と呼んだもの、それはレヴィナスの〈イリヤ〉が未だ〈恐怖〉の体験だったのに対し、その〈恐怖〉をすら不可能にしてしまうような何かなのではないか。つまりイリヤがアウシュヴィッツでありサリンであるとしたら、ブランショの(災厄)はヒロシマでありネバダでありハルマゲドンであり怒りの神なのだ。

 〈災厄〉はもはや〈不在〉とはいえない。逆に〈イリヤ〉はまさしく〈不在〉だったのだが、〈災厄〉は現前しないとしても不在ではないような暴露性であり被爆性なのだ。ブランショの思考は被爆者の思考、それも閃光と共に蒸発させられ、恐怖を覚えることすらなく消されてしまった被爆者のなかの被爆者の思考だ。

 だからこそ、逆に〈災厄〉にこそ〈イリヤ〉の恐怖の迷宮を、この恐怖の大王の黒き鉄の牢獄を打ち破る最後の希望をわたしは託そう。〈災厄〉、それは〈奇蹟〉であるのだから。
 それはレヴィナスの神を廃棄するような神であり、律法を完全に爆破して星空に返してしまうような神の〈神の内なる位相転換〉なのである。

 もはや神が神ならざる神となるとき、われわれもまたわれわれならざるわれわれとなることが出来る。しかし、それが「有り得る」とか「可能である」といかいうのではないのだ。「出来る」とはもはや能力とはいえない超能力のようなものだが、「超能力」とそれをいうべきではない。
 それはむしろ〈放射能〉というべきもの、〈根源的能動性〉というべきもの、出来事としての出来事の洪水なのだ。

 風がそれをもたらす。というより、風がそれであるような風媒が既にしてそれなのだ。

 出来事は、超能力でも無能力でも能力でもありえない。それはまさにありえない力だ。放射能力であり、そして一層、不可能力ないし不可抗力としかいえないような魔法なのだ。

 おそらく災厄とはついには星のきらめきである。それは〈存在〉をすら凌駕する〈運命〉の美しさなのである。

―了―




【後記】「形而上学的〈風〉についての考察」は、ひとまずここで筆を置くかたちにて終わる。ベースになった原稿は1996年頃に書かれたものだ。9年後に読み返しつつ、それと格闘するようにして加筆・削除・訂正を行い、ここに初めて人目に晒すかたちとなった。

考察の部分部分には途切れや飛躍が目立つ。これは敢えてそうしたものである。わたしは自分自身の思考を出来るだけ切断しておかなければならなかった。それでこのような、カマイタチに切り刻まれたような形のテクストとなった。

もちろん、わたしのなかで形而上学的〈風〉について考察するという課題はこれで終わった訳ではない。だが、この原稿の続編が書かれる事はもう二度とありえないだろう。せいぜい加筆訂正が行われることがあるとしても、この十四篇からなる断章集に新たな章が付け加わる事はない。

この考察は〈風〉の思考の始まりの場所にある。そしてその扉は永遠にこのままに〈風〉に向かって開け放たれたままにしておかねばならない。
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by novalis666 | 2005-02-01 02:54 | 考察