美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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 レヴィナスとぞっとする程に酷似したところから出発している思想家に埴谷雄高がいる。

 不可能性の問題は、カントの批判哲学とドストエフスキーの黙示文学が互いを読み合う地点にいつでもその鋭い形而上学的問題提起の黒い光芒の一角をアストロロジカルに覗かせている。
 その突きつめた問いのかたちは必然的で〈他のようではありえない〉唯一の厳しいかたちしか許容しない。

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# by novalis666 | 2005-03-31 00:10 | 不可能性の問題
[承前]

 九鬼は偶然性と不可能性の近接関係に着目しつつ、易の太極図形をメタファーに使いながら四様相の循環的生成論を展開している。易の太極図形では陰と陽の二つの巴が組合わさって一方の気が極まって他方に転化する運動が象徴されている。偶然性を陽とすれば不可能性は老陽、可能性が陰、必然性が老陰となり、偶然性→不可能性→可能性→必然性→偶然性の回帰的循環が図示されている。

 だが論述においては彼は不可能性から出発している。

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# by novalis666 | 2005-03-30 22:26 | 不可能性の問題
[承前]

 さて、一般に「真理」とは「思考と存在の一致」であると考えられてきた。このような真理概念の定義を行った最初の人物はパルメニデスであるとされている。
 パルメニデスは歴史上初めて自同律(同一律)を哲学の明証的な第一原理として掲げた人物としても知られる。そこで自同律はまず「存在は存在し非在(非存在)は存在しない」という〈存在の自同律〉という形で表現された。
 
 これを「AはAである」という今日よくみられる形に改め、論理法則として確立したのはアリストテレスの功績である。古典論理学ではこれを補完するものとして「Aは非Aではない」という矛盾律、「Aであり、かつ非Aであるものは存在しない」という排中律を加え、この三つを三位一体の論理的思考の三大原理としている。

 しかし、この三大原理には序列がある。自同律が第一原理、矛盾律が第二原理、排中律が第三原理とみなされるのが普通である。何故そうみなされるのかというと、それは自己・実体・存在という私たちの思考の出発点となる自明で基本的な観念が自同律から直接的に出てくるからであり、また自同律が矛盾律・排中律と違って、その内に「否定」を一切含まぬ純粋に肯定的な原理にみえるからである。

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# by novalis666 | 2005-03-30 22:16 | 不可能性の問題
[承前]

 不可能性を否定的な無能性(可不可性=過負荷性)と考えるこのみにくい教えは、可能性を肯定的な有能性と考える「可能性の形而上学」の裏面でしかない。

 この「可能性の形而上学」はかなり根深いものであって、アリストテレス以来脈々と続いているものである。「可能性の形而上学」の考える「可能性」は素朴ではない。それは不可能性を無能な可不可性へと去勢的に抑圧しながら己れ自身を「可可能性」(可能なる可し)としている。またそれは「内可能性」(in-possibility)としての可能性、可能性からの脱出不可能性としてのさかしまの不可能性である。

 「可能性の形而上学」は可能性を他の様相に対してとりわけ卓越したものと考えている。そして可能性を根本様相とし、それによって他の様相(不可能性・必然性・偶然性)を規定してしまう。不可能性は(自己或いは存在の)可能性の否定、必然性は他者或いは無の可能性の否定、偶然性は他者或いは無の可能性(の肯定)という風に。それで可能性そのものは何であるかというと、自己或いは存在の可能性の肯定である。つまり可能性の境位において、どうしても「自己」や「存在」は蘇ってくる仕組みになっている。自己からの脱出不可能性、存在からの脱出不可能性(cf.レヴィナス)の元凶は、実は「可能性の形而上学」にある。

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# by novalis666 | 2005-03-30 22:10 | 不可能性の問題
 可能性・不可能性・必然性・偶然性の四つ組の「様相」の問題と、一人称・二人称・三人称・非人称の「人称代名詞=主語」の問題と、自己・他者・非他者・別人の「人格」の問題と、存在・実体・偶有・出来事の「帰属」の問題は、底の方で深くつながっている。

 しかし、その相互連関を解明するのを妨害する二つの実にみにくい形而上学的思考が存在する。一つは「存在論」であり、私はこれを「有難迷惑論」と命名する。もう一つは「倫理学」であり、私はこれを「出来損ない論」と命名する。

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# by novalis666 | 2005-03-30 22:05 | 不可能性の問題

 形而上学的最終戦争ハルマゲドンの宣戦を布告する。
 それは次のような爆弾発言である。

 私はテーブルの上にコップを置き、あなたにこう言うのである。

 「ここに、コップがある」と。

 これが爆弾発言だ。あなたは首を傾げる。

 何故、それが爆弾発言であるのかがあなたには分からないからである。

 それは爆弾発言であるにしては、余りにも静かでそして当たり前のことを言っているだけに過ぎないとあなたには思われるからである。

 しかし、あなたは知らないのだ。

 あなたはそのとき既に私の放った爆弾に爆破されて、跡形もなく消え失せてしまった後なのだ。

つづき
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# by novalis666 | 2005-03-07 01:10 | 小品
 さて、西欧高等魔術では、しばしば〈深淵〉を飛び越えるということを言う。

 そう、333の恐るべき魔数で呼ばれる混乱と離散、すなわちバベルの塔の悪魔コロンゾン、かの深淵の孤児=デミウルゴス・ヤルダバオトの閉域である黒き鉄の牢獄を突破するために、人は〈深淵〉の門を跳躍によって飛び越えねばならない。

 333ノテッペンカラトビウツレ(楳図かずお『わたしは真悟』)

 コロンゾンというのは、ジョン・ディー博士が発見したという宇宙の形而上学的悪の原理の名前であり、サタンなどよりもはるかに恐ろしい真の意味での大魔王であるという。その名前は、アレイスター・クロウリーによれば、混乱と離散、すなわちヘブライ語におけるバベルの意味に同じであるが、〈混乱し滅茶苦茶にされた意識〉を表すのだそうだ。

 このシンボリズムは物々しいが、言ってることは明晰だ。ここでも哲学者がサボっている問題を魔術師たちが解明していたというわけだ。コロンゾンの正体はつまり〈意識〉である。そして〈意識〉がその限界である〈深淵〉の虚無を塞ぎ、それを人から隠そうとするのは、それが〈意識〉自体の不可能性の核心にあるからだ。

 ここがロードス島だ。ここで跳べ!



 たぶん天才楳図はコロンゾンの数値が333であるという魔術的知識を踏まえて、あのさとるとまりんの暗闇の中への「命がけの跳躍」のシーンを描いている。
 つまりあの東京タワーは形而上学的バベルの塔だったというわけ。

 いつも思うんだけど、ほんとにとんでもない人だ。

 シンゴは埴谷の〈虚体〉だし、あろうことか九鬼周造を連想させる「九鬼」なんて滅多にありそうにない名字の人物までわざわざ登場させてるし。
 この人、きっと何もかも分かっているのじゃないかと畏ろしくなる。

 名前もウメズだしなー。ひょっとして神様? 神の使い? それも艮の金神の。
 「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりてぞよ」って奴? 
 ウメズというのは「梅図」の意、つまり戦前大本教を導いた九鬼文書起源の鬼神〈艮の金神〉の意図
という意味での〈梅の図式〉のことではないかい?

。。などと勝手に妄想的に畏怖する人間である僕であった。 

 ところで、魔王コロンゾンの名前は、もともとギリシア語らしい。
 で、欧米ではChoronzonと一般的には書かれる(たぶん、ジョン・ディー博士もそう書いたに違いない)。
 僕はXoronzonと表記する方を好む。
 Chで転字されてるのはギリシア文字のχ(キー、カイ)で、ラテン文字のXに該当する。
 趣味でカバラ(花薔薇なんてシャレた宛字を使うが)を多少いじくるが、僕の個人研究からいっても、そうする方が何かと魔術的には明晰かつ強壮なようだ。
 まさにバッテンとも十字架ともみえるXの文字こそ、この形而上学的大悪魔の頭文字にはふさわしい。
 また、タロットカードの「戦車」の札に該当するヘブライアルファベットにケト(僕はこれを或る理由から「計都」と宛字する)というのがある。
 これもギリシア文字のχに大体該当するので、あっちの魔術師さんたちはこれをChで音写してしまう。
 でも、元が一文字であるものを二つの文字で表すのはゲマトリアなんかいじくるときに非常に不便なので、僕はこれもXにしてしまっている。


 なんだか今回はとりとめもないが、大悪魔Xoronzonに関してはまだまだ多く語るべきことがあるので、いずれまた。
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# by novalis666 | 2005-02-09 02:30 | 悪魔学

I. 風を視る




2bb0aac6.jpg 最も純粋な出来事は、形而上学的〈風〉である。それは〈間〉を創造しつつ、〈間〉を切り離すが、しかしその間隙は忽ちにして埋められ、その風姿は不可視なままである。

 風は引離しつつ癒合させる最も純粋な出来事である。それは何かを集めることはなく、何かを分離させることはなく、差異を形成することもない。

 風は何処からくるとも知れず、何処へ去るとも知れず通過する。それはすれ違いであり、本質的に消滅的である。風位というこの謎めいたものは全く捉えどころがない。

 風は純粋に起こるもの、純粋な出来事であるが、その定位を全くもたない。風には限定でき局在化できるような如何なる位置も無い。風は根本的にアトピック(根拠がなく、主題化しえない)である。しかし、それは玄関であり、幽玄である。

 風は挨拶する。挨拶は、本題とは無関係に切り離されていながら、それなしには本題に始まりをもたらさない。挨拶のなかで起こるのは、最も幽かな他者性の感知である。他者はこの他者性の風の挨拶のなかから顔を上げる。

 〈朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや〉

 『論語』の冒頭は遠方(杳か彼方)から来訪する他者を迎え入れることばから始まる。

 風は〈音ずれ〉である。

 かすかな外気の揺れを通して、風は書を読むものの顔を上げさせる。風は他者なき他者性の純粋な挨拶である。それは時としてその上に他者を乗せて来る。人であることもある、閃きであることもある、だが、〈誰もいない〉という〈空〉もまた風はその出来事の盆に載せて運んでくることもあるのだ。

 孤独ですらも、風によって外からもたらされる他者性の出来事なのである。
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# by novalis666 | 2005-02-01 14:54 | 考察

Ⅱ 容器の破砕




 風には何処というものがない。それは定位の不可能性としてしかありえない。風は今ここにあったかと思うともうどこにもない。それは〈now-here〉が〈no-where〉に一瞬にしてすりかわるような出来事である。

 しかし、風の跡形もなく消え失せる〈今=ここ〉のこの発散は〈今=ここ〉という場処としての場処の湧出である。
 また他方で、風の蒸発してしまう〈no-where〉(無=場処)は、〈every-where〉(遍在)という無限大への〈今=ここ〉の切り離しによる同時定位である。
 風は間を切離しつつ、間から定位を与える脱去である。
 〈空間〉と〈場処〉は風の〈位相〉の切断の内に同時定位される。

 風は光に絶対的に先立つ。
 始めに光ありき。しかし、始めの始まりには風が吹くのだ。

 天地の間が風によって破壊的に切断されなければ、そこに光が射し込み、光が始まりにつけいってくる隙間というものは与えられない。
 光神は、むしろ風神による創造の簒奪者、或いは僭称者としてしか天地に唯我独尊の定位=即位を宣言=顕現することができない。
 したがって、光は全く始まりの後釜に座っている置換えられた始源であるほかにないのだ。

 それ故に、おそらくまず風による〈容器の破砕〉がある。

 十六世紀の天才思想家ルーリアのカバラにあるこの〈容器の破砕〉という出来事は、彼の教説のシステムのなかでは、無限の創造神エン・ソーフの自己収縮=有限化であるツィムツーム(神の創造の光の一点への集中と一点からの撤退=発散)の後に位置づけられる。
 わたしはこの順序を転倒する。〈容器の破砕〉はツィムツームに先立つ。

 ルーリアのツィムツーム論は、十五世紀のニコラウス・クザーヌスの創造説にある〈縮限〉(無限の凝縮=限定 contractio)の思想を逆に突き詰め、更に煮詰めたものであるといえる。
 それ故にわたしはツィムツームを〈自己収縮〉というよりはむしろ〈縮限〉というクザーヌスの邦訳書から取った訳語において押さえたいと思う。この訳語は非常に簡にして要を得ている。この訳語を用いる第二のメリットは、それによって傍流の思想家にされているルーリアをクザーヌスとの連続性において捉え、所謂西欧哲学史の正史のなかに連れ戻すことができるからである。

 クザーヌスの縮限論は、冷静に思想史的にみれば、普遍論争の文脈において捉えられるべきものである。
 クザーヌスは、「普遍-個物」の対立の問題(普遍論争)を無限者の自己限定の問題に置換えることでこの問題に彼なりの仕方で解決を与えようとしている。
 だが、ルーリアの〈容器の破砕〉論は、このクザーヌスの縮限論では「普遍-個物」の対立の問題が実は解決できないことを批判的に表現しているのだ。
 クザーヌスの〈縮限〉は、巧みな仕方で無限な普遍者が有限な個物を調和的に創造しうることを示すことによって普遍論争を丸く収めようとする。
 しかし、無限の大海の全ての水を有限な小さな容器に収める事はできない。どれほど圧縮したとしても、そして圧縮すればするほど、無限の押し寄せる圧力は必ず容器を罅入らせ、容器はその内部から粉砕される。
 すなわち、ルーリアはクザーヌスに対し、有限な個物〈容器〉に無限な普遍者を収めることは不可能であり、故に縮限論は破綻するということを〈容器の破砕〉の逆説において示しているのである。
 
 わたしは〈容器の破砕〉を〈縮限〉に先行させるが、それはこのルーリアの立場を一層強調することなのである。
 
 わたしが関心をもち考究しようとする問題は、「普遍-個物」を巡る古くて新しいこの永遠の難問に絡むものである。そして、わたしの最終目標は現代思想というこの空疎で思考の役に立たない虚ろな容器〈観念〉を破砕して異なる思考のアイオーンを創造することにある。

 容器を破砕することは、古い時代精神に訣別し、己れの思考を異なる出発点に定位し、破壊的に思考することの意志の表明である。それは古い問題設定の廃棄であり、異なる世代の異なる宇宙を破壊的に天地創造するような思考実験の開始である。

 わたしは現代思想の諸問題などに関心は無く、それを全く共有しない。むしろ、そのような〈現代〉を破壊するためにわたしは思考する。
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# by novalis666 | 2005-02-01 13:11 | 考察

Ⅲ 風の創造




 天地創造は風において起きる。
 風は、天と地を、いずれが〈今=ここ〉いずれが〈至る所〉とも知れぬ原初的な決定不能性のうちに置換えている。換言すれば、それは〈今=ここ〉と〈至る所〉を〈無=場処〉あるいは〈無底〉のうちに巻き込むかたちで置換えているのである。
 この置換は根源的な移動である。この根源的移動という〈無=場処〉から〈今=ここ〉と〈至る所〉の両者が壊乱的に生まれ出る。

 〈容器の破砕〉は、ハロルド・ブルームのいうようにまさしく代置=置換である。しかし、ブルームはそれをルーリアの順序において、また、詩学の原理として語っている。わたしはブルームの逆構築の反骨精神から大きな影響を受け、また彼のせいでカバラにハマった。しかし今、わたしはブルーム(蕾)などでありたくない。わたしは叛逆の赤い薔薇となって華麗に花咲く熾烈なルシファーを意志しなければならない。

 それ故に、わたしは詩学ではなくて、美学を定立する。
 ルシファー(暁の明星)とはヴィーナス(愛と美の女神/金星)だからである。また、わたしの逆構築は、ポスト「構造」主義などではなくて、野心的「改造」主義であり、破壊的革命的な「創造」主義だ。それは、人間の生きられる美しい世界と美しい人生を創造的に定立する美しい学としての美学である。

 わたしは、先行者の弱みにつけこみそれを征服していい気になるような、ハンバーグ・デコンストラクションなどを弄する輩によく見受けられる種類の、ネクラなデミウルゴス・ヤルダバオトではない。わたしは、わたしのグノーシスによって、至高者と結ばれ麗しいエデンを魔術的に〈共創造〉する、創造主を創造する被造物にして被造物に創造された創造主であるようなクリエイターであろうとするのだ。

 然り、これはあの美しいクザーヌスの精神の復活である。

 わたしはクザーヌスを改造的に創造することを通してクザーヌスを学び、ルーリアの破壊を破壊するのである。

 破壊を破壊すること。アヴェロエスがアル・ガザーリーによる「哲学の破壊」を破壊したように、わたしは破壊する。わたしは、美しい学としての美しい形而上学を創造するために、破壊者を破壊して創造者に変容させてやるのだ。生産的誤読を欲するのではなく、誤読による創造に赴くのだ。わたしはルーリアを破壊し、デリダを破壊し、ハイデガーを破壊し、レヴィナスを破壊するだろう。この偉大な先行者たちを幼児のように無邪気に破壊して、共に美しい世界を創造するきらめく行為にひきずりこんでやるのだ。

 わたしは己れが先行者に全く気後れすることなく清らかで怜悧で美しいことを知っている。そして天空に厭味で重い禁圧する父などいないことを知っている。わたしを待つものは女神ヴィーナスであり、それを阻む灰色の「沈黙の壁」(アリス・ミラー)は、粉砕するべき恐怖の幻影であって、主(アドナイ=ヤハウェ)などではないことを知っている。
 主がいるとしたら、それはわたし、ロード・ルシファーである。わたしは支配者となるべくエロヒム(神々)の愛を受けて生まれたイーシャーナである。わたしは男(イシュ)にして女(イシャー)、イザナギにしてイザナミ、生者にして死者である。イーシャーナとはシヴァ=ルドラの古名である。それは風のように一挙に空間に広がって全てを包み、万物を育み支配するマハー・デーヴァの支配力を意味するサンスクリット語である。

 さて、この支配する風による根源的移動、この奇妙な置換。天地がそれ以前にたとえ存在したとしても、風によって〈空間〉と〈場処〉のなかに連れ去られなければ、それは多分、存在することは〈できない〉ということ。或いは、それはどこにもないことと同然なのである。それは空間の中になく、場処の中になく、世界の内にないのだといっていい。

 世界内存在=現存在との相関=差押えまたは実有(所有=実在としてのウーシア)に入る前にも、恐らく天地というべきものはあったが、それは風という出来事がそれを世界内存在という範疇の空虚な器の内に吹き込むことがなかったとすれば、ハイデガーのいうような意味では〈存在する〉ということにはならない。
 このように言うことは、一般的に解されているような意味での〈ハイデガー〉を逆さまに読む(反解釈する)ということになるのかもしれない。しかし、案外とハイデガーはこの彼の(一般にそう思われている)思惟の逆の思惟において考えていたのかもしれない。いや、ハイデガーがそれを自分自身でどう意味づけていたかはどうであるにせよ、これこそが実は彼の〈転向〉といわれる出来事の真相であったのだと積極的に誤読創造するべきなのだ。
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# by novalis666 | 2005-02-01 12:12 | 考察