美学・哲学・悪魔学・詩集


by novalis666
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Ⅳ 風の戦い




 世界の世界性以前に、原初的自然としかいいようのない存在せざる〈もの〉、換言すれば発見(脱隠蔽化/啓示)されざる次元は、恐らくあったとしかいいようがない。それは存在なき存在者としかいいようのない存在の一義性の狂気の次元である。存在の一義性においては、万物は存在者としてみる限りにおいて完全に無差異未分化な〈のっぺらぼう〉(埴谷雄高)としかいいようがない。

 ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性をつきつめて考えてゆけば、全ては完全に無差異の一元へと殲滅(ex-terminate)されざるを得ない。一義性において存在をみるとき、そこには個性は全くありえない。あるのは、サルトル=ロカンタンが戦慄した存在のカオスでしかない。或いはパルメニデスの〈存在は存在する〉というのっぺらぼうの球体=一者(ον)でしかありえない。或いはまた、レヴィナスを怯えさせたような非人称のイリヤ(il y a)の暗黒夢であるとしかいえない。というより、これらの思想が描写しようとしてその表をまさぐり何か必然的に思考空転せざるを得ない、つかみどころのないヌルリとした恐ろしい観念に遭遇するしかないのだ。

(※付言すれば、ラヴクラフトはこの存在論的恐怖について最も鋭敏な感性をもった作家であった。彼の語る邪神たちは皆、レヴィナスの語るイリヤの夜の産物なのであり、神話学的にではなく哲学的に解明されなければなならない代物だ。ことにクトゥルーとナイアルラトホテプにはその性質が強い。この点でラヴクラフトは単なる恐怖作家ではなく、或る意味ではポオよりもはるかに一層、真剣な哲学的議題において取り上げられ論議されなければならない重大な作家なのである。どうもそのようには評価されていないようではあるが。)

 柄谷行人は、『探求Ⅱ』において、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性を補完するもう一つの概念に関わるとても重要な差異について、示唆に富む指摘をしている。

 「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。」(同書「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19)

 存在の一義性の次元では、柄谷が単独性といい、また「この」性(thisness)という言い方で言い表そうとしているような差異が完全に消去されてしまっている。

 ドゥンス・スコトゥスの存在論は、或る具体的個別的=分割不可能的(individual)な存在者を捕まえて、それを一義性(univocitas)とこれ性(haecceitas)に不可能的に切断する。それは如何にして柄谷のいうような分裂症的世界から、そうではなくて、われわれにとって自明な「この私・この他者・この物」があるような世界が誕生するかの位相転換を語ろうとしているのだといってよい。それは何故「世界」ではなくて「この世界」があるのかという非常に微妙な、しかし真の意味での存在論的差異に係わっている。

 一般にハイデガーの存在論的差異というとき、それは単純に存在者(名詞的様態)と存在すること(動詞的様態)の差異のことであると解されている。これは別に間違いではないし、事実ハイデガー自身もそう書いている。だが、実は問題はそのような表面的な文法学の水準にはない。ハイデガーが存在論的差異というとき、むしろ柄谷が明確に言い切ったような差異の方にこそこだわっているのである。むしろ論点はそこにこそあるのだ。

 レヴィナスはハイデガーの存在論的差異を語るとき、この曖昧さに業を煮やして、独自の存在の位相転換(様相変換)論を展開しようとする。そのときに彼はハイデガーの存在論的差異には、存在者と存在の区別はあっても切断がないと言い、これに対して存在論的切断を提唱する。そしてこの存在論的切断によって、レヴィナスは、彼がイポスターズと呼ぶ、存在の位相転換=様相変換論を展開するための場を、その切断した差異の奪取から作り上げる。この切り離された差異の断面において、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に実詞化するという、存在の様態変容ないし位相転換が初めて語りうるものになるのだ。この位相転換=品詞転換が生じる場のことを、レヴィナスは〈イリヤ〉(非人称の〝ある〟 il y a)と読んでいる(『時間と他者』)。

 しかし、レヴィナスはハイデガーに劣らず曖昧な語り方をしている。実際には、存在論的差異の意味を変えずにそれを存在者と存在に切断したところで何かが認識的に明瞭になる訳ではない。ハイデガーの存在論的「区別」がずれているように、レヴィナスの存在論的「切断」も切り口がずれているのだ。

 ただイポスターズが、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に品詞転換するという問題に過ぎないなら、それは全く柄谷行人の言ったような「私・他者・物」と「この私・この他者・この物」の間の差異に触れてきてはいない。
 しかし、レヴィナスがその位相転換論において真に問題にしようとしたのは、まさに柄谷のいうような差異についてなのであり、彼がハイデガーを批判するのも、実は一つの存在者において存在者と存在が区別されているだけで切断されていないということにあるのではなくて、「存在者と存在」の区別と「私とこの私」の区別をハイデガーが曖昧に混同していることに対して、それを切断しろと言っているのである。

 レヴィナスはドゥンス・スコトゥスの名を挙げていない。しかし、にも拘らず、彼のハイデガー批判はスコトゥスにおける一義性/これ性の存在論的差異によってハイデガーの存在論的差異を切断しようとしたものである。レヴィナスは非人称的=匿名的な〈実存すること〉であるイリヤと人称的=具体的で名指すことの可能な〈実存者〉を違う位相にあるものとして対比させるとき、それを〈今ここ〉という定位=局所化の有無において問題にしている。実存者は〈今ここ〉にあるところの「この私」である。これに対してイリヤは一義的で非人称的なものであるといえる。

 だが、ハイデガーは別の位相で実は一義性/これ性の差異にぶつかっている。そもそもその教授資格論文がスコトゥス論であった彼がそれを踏まえていない訳がないのである。彼は存在論的差異をいうとき、実はレヴィナスとは逆さまに、むしろ存在者の概念においてスコトゥスの一義性を見出している。逆にこれ性に関わるのが存在なのである。

 スコトゥスが存在の一義性というとき、それはあらゆる存在者を〈存在する〉という一義性において無差別平等に括ってしまうということを意味する。するとあらゆる存在は一元的に存在者一般という類概念によって通約されてしまうことになる。

 ここで言葉の問題がある。

 スコトゥスのいう一義的な「存在」というのは原語のラテン語で〈ens〉といって名詞であり、これはハイデガーの用語法でいう「存在者」にあたる。ハイデガーにとって、スコトゥスの「存在の一義性」は「存在者の一義性」を意味する。ハイデガーはむしろレヴィナスとは逆に「存在者」の概念の方が恐るべき無個性的・非人称的なイリヤに見えているのである。

 わたしはレヴィナスのいう実存者なき実存イリヤを単純に存在者なき存在と解することに猛烈に反対である。レヴィナスの実存者/実存とハイデガーの存在者/存在は位相の違った概念であり、それを安易に混同する事は愚かである以上に有害な結果をもたらす。それはレヴィナスもハイデガーも読んでも何も読まないことであるばかりか、双方の良いところを相殺しあって、単に破壊的で反人間的な哲学を創ってしまうことにしかならない。混合してはならない洗剤を混合してみたまえ。君はそのバスルームで下手をすれば死ぬ。自分の頭蓋のなかにサリンを撒くようなことをしてはならない。

 むしろイリヤは存在ではなくて、スコトゥスが一義性というような意味での〈存在者〉のことなのである。その次元においては、〈これ性〉つまり具体的個性的な実存が成立しない。柄谷のいうような「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しない」ような分裂症的世界(反世界)が広がっているのである。

 それはまさにウィトゲンシュタインが「示され得る」と言いながら「沈黙しなければならない」と言わなければならなかった「私=世界の限界」外にある恐るべき「語りえぬもの」の真の次元である。このウィトゲンシュタインの絶望的な恐怖と真に迫った恐怖を共有しないとしたら、『論理哲学論考』は愚かで厭味な天才気取りの頭のイカレた奴の書いた横柄で抑圧的な駄本であるに過ぎない。
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# by novalis666 | 2005-02-01 11:14 | 考察

Ⅴ 風の混乱




 ウィトゲンシュタインは、狂おしくその語りえぬものを示そうとするが、それは「この」のない分裂症的世界が実際に彼に襲い掛かっていたからである。彼は「この」なき「私・他者・物」に必死になって「この」をつけようとしている。彼のいう「私」は誰にでも妥当するような自己(私一般)を少しも意味していない。
 むしろ逆である。彼は常に「この私」において語ろうとしているのであって、「その私」(この私ではない私一般)を消そうとしている。

 ところが、恐ろしいことに、その『論理哲学論考』を裏返しに読んで、「この私」を消さなければならないとし、「その私」において「語りうること」、つまり「この私」には「語りえぬこと」のみを語り、「示されねばならない」のに、「この私」にそれを示しもせず、「この私」に「沈黙しなければならない」と脅迫をかける碌でもない読者が大勢いる。このような者たちは、ウィトゲンシュタインを理解しているつもりでいて、実は彼を殺して化物を、ウィトゲンシュタインの別人を創っている。わたしはそういう狂人を個人的にも何人か知っているが、彼らをみると絶望的な気分になってくる。まさに「その私」どもを沈黙させなければならない。

 同様の人種は、無論、どの思想家の読者においてもいるものである。恐ろしいことであるが、それは常に大概多数派である。
 虚偽意識の面の皮の厚さにはいつも恐怖と吐気を覚える。
 彼らが本を読むのは、その本を人より先に読んで自分を批判させないためである。わたしは、聡明で優秀な口のうまい人間を絶対に信用しないし認めない。彼らは自分に敵意をもつ書物を敏感に嗅ぎ分け、それから言葉をかすめとって、意味の方角を正反対に向け、真実から嘘を、善から悪を生み出すことに余念がない。そして、そういうことしかしないでいる癖に、自分はその本の著者の代弁者になったつもりでいつもいるものである。
 こういう人間こそが真の意味での悪魔である。そして白痴の悪霊であるところの死霊、屠殺されるべき豚にして小便臭い麻痺した仔羊である。彼らは自分が迷っているのにそのことを知らず、それより悪い事に、他人を迷いに導く有難迷惑な批評家先生である。愛と批判能力のない優等生的雄弁家と教育熱心なくせに友愛の欠けている幸福なモラリストどもは早く死んだ方がいい。

 わたしは常に思うのであるが、或る思想家の真の偉大さに気づくのは、その人の途方もないバカさ加減や痛ましさを発見したときである。認識の瞬間はいつでも痛ましいものだ。知識と認識は違う。認識するとき、わたしは誰も尊敬しないが、眼前の人を痛ましく、また、愛しいと思う。それは相手を罵倒できるときだ。

 わたしは罵倒することによって、レヴィナスをハイデガーをウィトゲンシュタインを認識する。
 常に、知識は罵倒によって破壊されねばならない。

 そのときに、やっと本の中に閉じ込められていた童心の叡智は、その真実を打ち明け始める。そのとき、わたしが抱き締めるその叡智は、本当に愛おしい。

 しかし、それをしない者が多すぎる。

 それどころか、著者に語らせないために読書する手合い程、嬉しげに読んだ本の話をよくしゃべるものだ。ぞっとすることに、大概意味を信じられぬほど正反対に取っている。
 間違えているものほど、聡明な語調で喋るが、常にその逆が真である。

 このようなことが起きるのは、イロニーのせいである。
 イロニーにやられた奴は、破滅しているし、他者も破滅させる。そして、この国の文化はほとんどそのテの人種によって牛耳られてしまっている。

 だが、一番用心しなければならないのは、優しげな顔をしたイロニー、ヒューモアのふりをしたイロニー、或いはそのつもりになったイロニーだ。これが最も恐ろしい真理の敵なのだ。

 本の読み過ぎで目の潰れた人間の、クソの詰まったひどい目をあなたは見たことがあるだろうか。見えないとしたら、あなたは目を洗った方がいい。あなたも同類になりかけているかもしれない。わたしは常に自分がそうなることを怖れる。
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# by novalis666 | 2005-02-01 10:15 | 考察

Ⅵ 風の叛逆




 しかし、そのことは措く。
 とにかくわたしが言いたいのは、巷のウィトゲンシュタイン信者には特にひどいのが多いということだ。

 他の思想家に群がる蝿どもよりも性質の悪い蝿どもの聞くに堪えない羽音となった実に五月蝿い〈語りえぬものについては沈黙しなければならない〉を耳にする度、おまえらこそ黙れ、自分の言葉で語り得ぬものこそが、沈黙しなければならないのだ!と一喝、蝿叩きの愛の鞭でその分厚い面の皮を思い切りひっぱたいてやらずにはいられないような、柄にもない教育的衝動に駆られてしまう。
 彼らは何も分かっていないくせに分かった気にさせてくれる本を常に飽くことなく捜し求めてやまないが、そんなことをするより先に、自分がどれほどひどいバカのロクデナシであるのかを知るべきであるし、人に尋ねるべきである。ウィトゲンシュタインはそれを生真面目に尋ねる勇気をもった人であった。
 
 師匠ラッセルにはじめて会った時、必死の形相で彼が何をラッセルに尋ねたかを想起せよ。自分はまるきりの馬鹿者なのかそうではないのかの問いに彼は命を賭けていた。馬鹿者で無いなら、僕は哲学者になりたい。だが馬鹿者であれば飛行機にでも乗って高いところから墜落し粉々に砕け散ってしまいたい、そこまで思いつめていたからこそ、ウィトゲンシュタインは哲学者に値したのである。実際にはまるきりの馬鹿者であったかもしれないが、そういう見上げた馬鹿者を一体誰が馬鹿にすることができようか。
 
 大概、ウィトゲンシュタインのファンにはお目出度いのが多いが、彼を真に理解したいと思うのなら、分裂症になるか、或いは死ぬほど辛い思いをするがいいのだ。彼は自分の言葉が話すそばから次々にむりしとられて、決して他人に伝わらないような恐ろしい空間に拉致され、命の芯が縮むほど脅かされ、しかし、そこからただ怒りによって、屈辱によって、憎悪と闘志と叫びによってのみ、狂おしく生きて生き抜こうとした一個の気高い人間なのだ。

 哲学者というのは、単に、いや、決して、世界の真相は何であるかについての知識豊富な人間のことを指すべき言葉ではない。逆である。そんな奴はニセモノなのだ。そうではない。哲学者には世界の道理がどうなっているかが絶対に分からないし、また、分かったりしてはいけないのだ。分かるものかというのが哲学である。貴様らはみんな嘘つきでクソッタレだというのが哲学である。おまえらなんか大嫌いだというのが、哲学者の世界への「知なき愛」なのだ。
 いい哲学者というのは、必ず物凄く物分りの悪いバカモノだ。九鬼周造をみるがいい。カントをみるがいい。スピノザをみるがいい。ブロッホをみるがいい。最高に素敵な哲学者というのは、必ずと言ってよいほど、物凄い変人で物凄いクソガキで物凄いバカモノである。

 我を忘れて猛り狂う子供の怒りを胸に持つ始末に負えないバカモノでなければ、どうして物が認識できるものか。厭味なオトナに成り下がって、おのれの分以外何も知らないくせに、パパは何でも知っているつもりになっているオオバカモノのお目出度い先生どもに物のあわれが分かってたまるものか。
 そのようなオオバカモノを憎悪する物凄いバカモノのクソガキである以外に何者でもありたくない奴だけが哲学者であり、絶対的に美しい人間なのだ。
 逆に、そういう哲学者でないような奴は直ちに人類の敵である。

 しかし、この「人類」という語を、ホモ=サピエンスと同義であるなどと思ってはいけない。

 下らぬホモ=サピエンス(知恵ある人=同類)など人類のために滅亡すれば良いのである。
 ホモ=ファーベルだろうとホモ=ルーデンスだろうとホモ=デメンスだろうと何でもホモは同じホモ、そのようなホモセクシャルですらないようなあらゆる安っぽいホモどもは、女子供の敵であるから、撲滅するべきなのである。
 哲学者は、そんな人間モドキどもに生存権など認めない。真の人間というのは、真の意味での最初の哲学者であったアリストテレスが実に正しく定義したように〈理性的動物〉のことである。
 人間を定義するのは、動物的で純粋な子供の理性である。換言すれば、理性は人間の獣性として再発見されなければならないし、わたしたちは、まさに来るべき人間をこのような意味での美しい獣として黙示録的に啓示されなければならないのである。

 哲学者は何も知らない。しかし、哲学者は世界に真実と正義があることを要求する。世界に真実などない。正義もない。法則もない。神もいない。だからこそ、哲学者はそれを要求し、命令し、創造するのだ。
 俺は俺様なのである。俺様のいうことをきかぬ世界など、ただ「ある」だけでは真の世界であるとは認めてやらぬ。そういう意固地な根性と負けん気がなくて、誰が哲学などするものか。

 哲学は断じてお上品なおとなしいおとなびたものではない。理性とは、所構わず駄々をこね、クレイジーに爆発する童心の、絶対的にはた迷惑で野蛮な動物的慟哭なのである。

 世界はロクデナシとバカヤロウとクソジジイと悪党の巣窟である。だからこそ、そんなものを叩き壊すために哲学者は生きるのだ。ロクデナシとバカヤロウとクソジジイと悪党は決して滅亡しない。だからこそ、こいつらを根絶やしにするために哲学者は生まれてくるのだ。一人死ねばもう一人が産声を上げる。世界に邪悪と野蛮と虚偽と醜悪と似非知識がある限り、それを憎み、永遠に許さない弱者の奇蹟の閃光である哲学は常にその地獄の底から立ち上がってくるのである。
 哲学は不可能なものである。不可能だからこそ、哲学は滅びず、常に復活し、逆襲するのである。
 もし世界に荘厳な神がいるとしたら、それは必ず哲学者のかぼそい命が創ったものである。哲学者は神の神である。この世で最も弱い人間である哲学者から、奇蹟のように、偉大な神の光芒が天空に発されるのだ。

 哲学者は命を燃やして思考する。生きること、それは命を燃やすことであり、命を燃やすとは、死に物狂いで考えることだからである。思考とはいかなる祈念よりも激しく真摯な祈念であり、すべての祈念はついに思考へと昇華して、そこに神が誕生する。そして、認識することは、いかなる超能力によってもなしえない凄まじい奇蹟を召喚し成就する、人の唯一のそして最後の魔法の力なのである。

 哲学者とはこのような人間の中の人間のことである。
 人間が人間であることの証明は、「この私」の尊厳の徹底として、おのれの全存在を挙げて火の玉のように哲学し、哲学に死んで、また生まれ来る別の哲人の胸に燃え移る永遠の怒りの炎、怒りの神に変わることなのだ。

 哲学とは「知への愛」(プラトン)などという甘ったれたものではない。クソッタレの嘘つきどもを生まれ生まれに生まれ変わって、いつの日にか絶対にふんづかまえて、その腐った性根を叩き直し、根絶やしにしてやるまで絶対に死ぬものかという厳格で狂おしい憤怒であり、容赦なき正義への要求、最後の審判への命がけの跳躍なのである。

 問題なのは常に「この私」なのである。「その私」などくたばらせねばならない。そのためには、そのいけ好かない「その」を引き千切り、「この」をそのそれに接続させねばならない。
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# by novalis666 | 2005-02-01 09:16 | 考察

Ⅶ 風の消滅


     

 風は恐るべき純粋な無/切断の爆発である。一瞬、全き虚無が万物をその黒よりもはるかに深い暗黒の中に消し去り、絶滅し尽くす。虚無の太刀の閃きが全てを覆し断滅させてしまう。風位としての風位はあらゆる定位に先行する定位の定位である。
 
 風は純粋な破壊である。
 破壊=創造の白きカタストロフィの〈内〉に森羅万象が一挙にして略奪され、形相も質料もない恐るべき完全虚無のなかに突き落とされ、消え失せる。
 それは、しかし、〈時空〉が、〈次元〉が創造される瞬間である。
 この意味で、風の瞬間、刹那滅は、時間そのものに完全に先行している。
 それは決して現在とはならない〈今〉である。

 この〈今〉、〈何処にもないこと〉が位置づけ自体の位置づけ、何処にも無い〈何処自体〉として絶対的に定立される。

 全てを吸着して消滅させる白きカタストロフィは、それ自身を翻して爆縮し、広がりをもたぬ形而上学的重力崩壊星、いわば〈否のブラックホール〉を形成する。

 白きカタストロフィは〈至るところ〉の無限を一挙に完全に定立するその絶対根拠であり、否のブラックホールは〈今ここ〉の背後の拒まれた〈今ここの今ここ〉として、それを背後から重力的に呪縛する絶対根拠である。

 しかし、この両者は、一陣の風の通行ただそれだけによって創造されてしまう還元不可能な〈実体の実体〉、すなわち〈何処自体〉という形而上学的原定位あるいは形而上学的絶対零度の双面であるに過ぎない。

 白きカタストロフィへの炸裂と否のブラックホールの爆縮は、表裏一体、不可分離的に、風の絶対零度の特異点に結束してしまっている。

     * * *

 風の無根底性は、〈風穴〉という〈風位〉それ自身の内への驚くべき筒抜性の観念を与える。
 この〈風穴〉の観念に一番近いものは恐らくエッダに描かれるギヌンガガップの真空である。風は〈風穴〉という宇宙のピンホールであり、瞬間それ自身の内を通り抜ける瞬間である。それは、無限としての無限を啓示する。

 絶対無であるといえる風の風位=風穴の開示する〈何処自体〉は、無限大(至るところ/白きカタストロフィ)と無限小(今ここ/否のブラックホール)の双面に分解する以前に、無限大でも無限小でもない無限の無、無限の絶対零度の、いかなる意味でも表象不可能な核(コア)の観念を与える。

     * * *

 風核という風穴の不可能性の核心に結実する、無限大でも無限小でもない無限の無、この風の絶対零度は、ゼロとしかいえない。
 このゼロに無限小と無限大は属している。無限大はこのゼロの不可能性の中心として、そして無限小はこのゼロの不可能性の限界として。
 両者は、このゼロに、いわば超新星爆発的に結合しているといっていい。
 つまり、逆にこのゼロは超新星(NOVA)なのである。

 ゼロの超新星爆発は、宇宙=空間(space)を与える。現代物理学でいうところのビッグ・バンは、宇宙=空間の出現以前に得体の知れない超新星が「あった」ことを前提=仮定してしまう。これは不可避的である。

 ゼロとは、このように消滅=爆発してしまった〈星〉であり、ノヴァであり、恐らく、厳密にブランショのいうような意味においての還元不可能なデザストル(désastre 災厄=堕星)なのだ。それは、言い換えるなら、われわれはこの初源の星から絶対的に切り離され、追放されて〈外〉にいるといえると同時に、その〈内〉に脱出不可能に呪縛されてしまっているということである。
 ブランショは恐らく、わたしと殆ど同じポイントに遭遇してしまっている。
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# by novalis666 | 2005-02-01 08:43 | 考察

Ⅷ 風の零度




 しかし、ゼロとは一体数量であるのか?

 この得体の知れないゼロ、無限の無は加減計算において何の意味ももたない。
 例えば、3に0を足すこと、或いは3から0を引くことにおいて、3にはいかなる変化も観測され得ない(3+0=3-0)。
 とはいえ、加算においては対称性がある。つまり、3に0を足すことと0に3を足すこと(合成)は同じ意味である(3+0=0+3)が、減算においては非対称性がある(3-0≠0-3)という差異は観測されるだろう。しかしながら、その場合においても、正負の符号が反転する(+が-になる)だけであって、3の自然数的で直観的に明晰な観念自体には変化はみられない。ただ0を中心にして、3が正領域から負領域へと点対称的に反対側へと置換えられるだけである。

 無論、わたしはここで算術についておさらいをしているのではなくて、そのことから得られる形而上学的な零の意味を解明しようとしているのである。

 量的な解は計算から出てくるが、その質的な意味についての解は形而上学的な思考によって創出しなければならない。算術はそのためのメタファーである。

 さて、先の思考実験の結果分かるのは、加減の場合において、存在者〈3〉は、その自己同一性(〈3であること〉)に何の変質も蒙らないということである。
 
 もっとも、3に0を足したり、3から0を引いたりすることは、実際には計算することであるとはいえない。それはむしろ計算しないということである。すなわち3+0というのは、3に0を実際に加えるというのではなくて、3に何も加えないということであり、0-3というのは3の符号を単に逆にするというより、それ以下であることは式を見れば分かる。つまり3は既にマイナス3として明示されているのであるから、やはり0からは何も引かれないのである。

 つまり、加減算の式のなかで、単独の数値としての0は単に省略=除外され、間引かれ、飛び越されてしまう存在に過ぎないのだ。

 恐らく、共に古代インドに起源をもつという異質な数、0と∞は、加減算の思考の秩序には本来合わない数、外異的な数なのである。

 ところが、乗除の計算においては事情が変わってくる。
 3に0を掛けると解は0、つまり3は消滅して0の中に吸収されてしまうが、それはまるで3がブラックホール(無限小)に呑み込まれたかのような観を呈するのだ。
 他方、0を3で割ると0、0はこのとき分割不可能な数として3の前に立ちはだかり3を無意味化してしまう。
 そして3を0で割ると∞の無限大が姿を現す。つまり3は無限大の分割にさらされて炸裂的に崩壊してしまうのである。

 乗除の計算において、わたしたちは初めて0の特異性に直面する。それは0としての0の顔前に引き出されるのだといってよい。或いは、触れば灼けつくように熱い、燃える石のような0の体を把握するのだといってもよい。
 また、わたしたちは、0において初めて無限としての無限の生の姿に出遭う。0は数空間の〈中心数〉であり、無限はその不可能性の〈周縁数〉であるといってよい。
 0と無限の両者はちょうど円の中心点と円周のように不可分に結合しあっている。

 中心がないなら円周は崩壊する。 
 0はあらゆる数を自分と無限との間に置くことで、数の全体を包括的に基礎づけている。
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# by novalis666 | 2005-02-01 08:36 | 考察

IX 風の円周率(π)


 

 円の中心と周縁は半径(radius)によって引き離されている。
 そこで0を中心とし、無限を円周とする円を考察してみることにする。無限はここで当然ながら半径のなかに、おのれ自身と中心〈0〉との間=距離として転写されて数量化する。
 そこで、円の構造を考えてみる。

 円の面積を与える式にあっても、円周の長さを与える式にあっても、そこには必ず半径の他に、π(円周率)という奇妙な定数が出現する。これは球の体積や外面を算出する式においても、また、n次元以上の〈超球〉を考えるときにあっても、必ず出てくる数である。

 あらゆる数の次元において、円の類比物(球や超球)を考えることができる。逆に、円は実は2次元における球体であるに過ぎない。わたしは数学には全くの門外漢であるが、次のことだけは分かる。球体の構造式は、それが何次元であるかに拘わらず、それに超越的に成立しているはずである(球体の体積R= π×半径rのn乗)。
 だが、これを考えることはクレイジーだ。半径無限大の球体はそれが何次元であっても、その次元を必ず爆発させてしまう。それは一種のノヴァに似ている。すると後にはπしか残らないだろう。

 このπは一体何なのか――これが恐らくわたしの追求している形而上学的風そのものなのではないだろうか。

  *  *  *

 風のπ(円周率)はゼロの超新星にノヴァをもたらすようにみえる。
 Rという球体の体積は空間の概念に対応し、rという半径は延長及び連続的距離([希]diasmata)に対応する。すると円周率のπとは、空間=体積であるRを連続的距離=半径rのn乗(累乗)で分割したものである。
 累乗というのは、ドゥルーズがアリストテレス『形而上学』を念頭に置きながら、スピノザを経由して〈力能〉として捉え返したものである。

 空間の次元数にあたるこの力能=累乗は、アリストテレスの可能性=潜勢態(デュナミス [羅]potentia)の概念を狙っている。力能によって累乗化された連続的距離は、円周率πによって空間=体積Rへと現勢化する。Rは充実した物体であることもあれば、それが脱去った空間でもあることだろう。
 πが隠喩しているのは、この様態変換を触発する出来事である。
 すなわち、風というπが到来する出来事によって、何か潜勢態にあるものが現勢態に変換されるのである。
 それは〈もの〉を出来させる。しかるにπは定数である。したがって、このπこそが球体の形相であるといえるだろう。

 さて、恐らくわれわれはそれを球とも円とも呼んでいないが、一次元的な球体というものが考えられる。
 それはR=πrという構造式で表せるような何かである。しかしこれは実現不可能な球体である。球体の形相πは一次元では球を形成することができない。それは恐らく奇妙な潰れた線であるということしかできない。それは円周と体積がべったり貼りついて互いに相手を引き離すことのできない状態であることだろう。

 しかし、われわれは今はこれ以上この問題に深入りすることは避けよう。機会あれば、改めてここから分岐する思考の方角を探索することにしたい。現在のわれわれの探究において、いま、おぼろげに浮かび上がってこようとするものを確認することが先決問題であり、それをまだ確定しないうちに先に進むことは慎むべきことである。

 われわれは少なくとも次のことを確定する事はできる。
 ゼロと無限は、1、2、3、4……のような自然数が数であるような意味においては数であるとはいえない。それは数えられない数である。
 ゼロは無限と一緒に生起する数空間全体の場の発生であり、それゆえに恐らくゼロは単に座標軸の原点であるのみならず、その座標空間の全体でもあるのだ。
 ゼロはしたがって数空間の全体性の定位である。

 したがって全ての数は、無と無限、0と∞の間に有限者としてあるといえるが、そのように数に場を与えているのは、この〈間〉或いは〈隙間〉としてのゼロの働きであるといえる。
 ところで、あらゆる数は0に根付いているといえるが、それはゼロから延びている有限な線分であるということ、つまり数は半径であるということである。
 数は半径としておのれ自身を0からの距離の度合([羅]modus:度)として示す。0はあらゆる数の基準であり、その意味の基盤である。
 0との関係を通さなければ、実はいかなる数も数値を持ち得ない。数をして数たらしめているのは実は0であり、あらゆる数はその半身として0を伴っているのである。

 数は、したがって、0に呪縛されており、0から脱出することの不可能性としてある。さもなければそれは位置づけを失い、蒸発する他にないだろうからである。

 あらゆる数は0と無限という双面をもった無限のゼロ(0=∞)の内側にあるといえる。そして、数の〈実体〉とは紛れもなくこのゼロ=零である。
 全ての数は、このゼロ=零という〈実体〉を分有(participatio)することによってのみ存在しうる。
 ただし、既に出たπと、そして1については、なおこの些か性急な断定を留保させるような何か別のものが感じられる。
 
 πには既に述べたようにこの無限の無である0を外へと逸脱して破裂せしめる過剰な風の力が宿っている。

 他方、1もまたπと共に、ゼロの繰り広げる恐るべき双面の零の空間に呑み込まれ、拉し去られてはいるが、本来的には零(0=∞)にとっては外異的でなければならない。

【付記】
数1については何故外異的であるのか追記の余地あり。
外異的であるのは、もし単位としてのこの1がなければ、そしてこの1と0との間の距離がなければ、他の数が成立することがないからである。
1は最初の定数として0の繰り広げる数空間に侵入している。そして、そのことによって、本来的に数えられない数である0をあたかも数えられる数であるように変換する。
0と1とで2つの数となる。こうして、2が生成する。
他の自然数は、基本的に〈反復〉によって生ずる。

以上のことがメモされるが、考察がまだ行き届いていないので、一旦は措くことにする。

なお、この考察では、πが風を、0が風の置き忘れていった風の抜け殻としての虚無的な他者性を、そして1が自己あるいは存在者を暗黙に意味している。

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# by novalis666 | 2005-02-01 07:39 | 考察

Ⅹ 風の孵化




 ゼロの構造はパルメニデスの〈一者〉([希]hen)の如く球体的である。球体は中心と外周への二極化において成り立つ。この二極化をもたらすものは半径(radius)であることはいうまでもない。

 半径は中心を外周から分離させ引離す。半径は連続量であり、連続的距離([希]diastema)として表象される。しかし、これを別の面から見れば、これはむしろ切断であり、不連続的距離([希]apostase アポスターズ)である。

 ゼロは本来的には0=∞である。しかし、これを0≠∞にするような切断が外から到来する。それが風のπである。

 われわれはここでオルフェウス教の神話を想起する。黒い翼をもつ夜の女神(レダないしエウリュノメ)の産み落とした銀の宇宙卵を風神オフィオンが蛇形となって孵化させ、それによって天地とエロスとが誕生するといわれる。この神話では、宇宙卵はリグ・ヴェーダのそれのように内発的自発的に割れるのではなく、外からの触発によって破砕される。
 同様の創造のカタストロフィ論はより悲劇的な形でルーリアのカバラの〈容器の破砕〉の思弁にもみられるものである。

 リグ・ヴェーダの場合、孵化を誘発するのは時間の時熟またはその内部のブラフマンの自覚である。この場合、出来事の他性は消されてしまっている。
 ゼロは宇宙卵ということができるが、宇宙卵を始まりに仮定したとしても、それが何故割れたのかということを説明することはできない。割れるという出来事そのものは、宇宙卵には還元不可能な外異性としてどうしても残ってしまう。

 むしろ風こそが宇宙卵としてのゼロの観念を生み出す。
 〈間〉という決定不能な場所は、天地創造の時の切り離しの瞬間に生じる。
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# by novalis666 | 2005-02-01 06:45 | 考察

XI 風の種子




 風は風媒し、花粉/差異を運搬する(種差=運搬 diaphora)。

 〈花粉 Biütenstanb〉とはノヴァーリスにおいて、霊感を帯び炸裂した天才の思考の断片=断章を意味している。NOVALISとは、〈種蒔く人〉を意味する、フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクの筆名である。

  *  *  *

 〈友よ、大地は貧しい。ほんのわずかな収穫を得んがためにも、われわれはたくさん種子を蒔かねばならぬ。/[銘]〉

 〈接触のたびごとにひとつの実体がうまれ、接触がつづくかぎりその作用もつづく。これが、個体のあらゆる綜合的変化の基礎である。もっとも、一方的な接触と相互的接触がある。前者が後者の基礎になっている。/[89]〉
(前田敬作訳 現代思潮社古典文庫『日記・花粉』「花粉」)


  *  *  *

 ノヴァーリスは〈接触〉という語で、ドゥルーズ&スピノザが〈触発=様態変様〉(affectio)として語ったことと同じことを言おうとしている。
 純粋な出来事としての風は、差異の種子である花粉=火種を運搬する。それはどこからともなく漂い寄せる、〈実体〉から切り離された差異の分子である。

 差異は風のなかで漂泊=彷徨し、その接触によって個体を触発して綜合的に変化させる。それが〈実体〉の生成である。いわばそれは触発する差異であるといえる。しかし、この差異は根本的には破壊的で炸裂的なものである。それは個体の実体的同一性を深刻な危機に晒す。

 花粉は異性的で生殖的である。それは同一体に取り込まれ、孕まれるときに〈同〉のなかの〈他〉として〈実体〉へと結実する。或いは、取り込むものが基体=基盤としての質料であるとすれば、ここで差異は形相として働き、個別的具体的な〈実体〉を誕生させるといってよい。
 しかし、この場合、自己実現するものは〈同〉ではなく〈他〉であり、差異であり、形相である。
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# by novalis666 | 2005-02-01 05:47 | 考察

XII 風の火種


    

 しかし、差異の種子は、時として災厄の火粉である場合がある。それは破壊的に働く。デリダは、差異のこの同一性を破壊する側面を〈毒薬〉として考察している(「プラトンのパルマケイアー」など)。

 災厄の火粉は、質料そのものをその爆発的結合の刹那に焼尽くしてしまうような破壊的な形相である。このとき、〈実体〉は通常の意味においては生まれ得ない。
 形相と質料が、その耐え難い異和的接触、ないし〈破壊=触発〉によって対消滅してしまうような爆発がありうる。それはある種の超新星爆発(NOVA)であり、災厄としての災厄の成就である。

 〈破壊=触発〉、或いは破壊触発はドゥルーズ&スピノザの〈触発=様態変様〉(affectio)の極限の姿である。否、むしろ、〈触発=様態変様〉の根底、その核心にあるのは、この風の根源的暴風性であるその破壊性に他ならない。いかなる微風のうちにも風自体の爆発性である破壊触発の凄まじい力は潜んでいる。否、むしろそれを見出さねばならないのだ。

 破壊=触発、いやむしろ、触発=破壊、触発とは破壊なのである。

 破壊触発は、質料を乗り越えるような強大で極限的な異化作用である場合がある。無論、この場合、質料がどのような様態(ラテン的概念modusにおいてではなく、ギリシア的概念pathosの意味において)にあるのかが考えられねばならない。

 通常、質料は、或る程度形成された様態にある。したがって、質料のなかには既に何らかの形相が先在している。破壊触発は、この先着している形相と、後から風に乗って到来した別の形相の間の矛盾・衝突という風に考えられる。形相と形相は融和せず相克する。多くの場合、先着者が自己維持して後からやってきたものを弾き出す。しかし、この逆もありうる。また、別の場合も考えられる。まず個体に分裂を引き起こす場合が考えられる。更にまた、同一質料のなかに、引き離された状態で、相異なる形相が混在雑居する場合もあるだろう。

 そして、純粋状態の、全く形相を含まない質料、いわゆる第一質料の場合をも考えておかねばならない。しかし、そのような場合にも、奇妙な言い方になるが、質料の形相というものが考えられうる。
 アリストテレスがそのようなものを認めていたかどうかは今は問題にしない。ただ、恐らく、形相/質料という概念対は、不可避的に一方が他方を必要としてしまう概念の組であって、それを無理に引き離そうとすると、極限的には双方無限背進に陥るような危うさをもっている。

 そこで、恐らく純粋質料においても、それを規定する形相というものが想定されうるので、やはり、その場合においても、純粋質料に最初の形相として到来した形相と、純粋質料をして純粋質料以外の何者でもないものたらしめていた形相、いわば〈無〉の形相との間で矛盾相克が生じうるのだと考えられてよい。いや、恐らくその場合においてこそ、むしろ最も苛烈で深刻な相克、いわば〈存在〉と〈無〉の火花を散らす凄まじい衝突が起きるのだ、と考えねばならない。

 そして、翻ってまたまたわれわれは、いかなる質料のうちにも決して宿ることのない形相、あるいは決して宿りえぬような形相、純粋形相とよぶべき形相をも想定することができる。
 しかし、この想定は、形相をイデア的な自体性に差し戻すプラトン的観念論とは別の方位を目指している想定である。
 すなわち、この場合でも、純粋質料についての想定(例えばレヴィナスのイポスターズ論を想起せよ)と全く同じように、その質料なき純粋形相をそれにもかかわらずそのように成り立たせている質料的なものを、われわれはなお、それを思念のなかに召喚する際に必然的に要請せざるを得ないからである。

 何故、純粋形相は思念のなかへと到来するのか?
 そして、それは質料ではないとすれば、それとは似て非なるいかなるものから出来ているのか?
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# by novalis666 | 2005-02-01 04:48 | 考察

XⅢ 風の痕跡


    

 高橋順一は、『始源のトポス』(エスエル出版会1986)のなかで、同一性の成立それ自体のうちに、不可避的にそれを抉るような、同一性には還元できない〈無〉への「媒介」の「始源的異化」の痕跡が孕まれてしまっていることを指摘している。
 これはわれわれの文脈でいう、風の風媒の漂流=彷徨とそれが破壊触発する存在論的災厄の火傷に該当するものである。

 高橋のいう〈媒介〉は、通常のヘーゲル主義がいうような止揚された同一性へと媒介するような媒介でもなければ、何らかの身元の割れた同一者の自己に遡及できるような媒介でもない。
 ヘーゲル主義の場合、媒介は他への媒介といわれるけれども、それは同一性へと回収可能な媒介であって、結局のところ自己への媒介を意味するに過ぎない。媒介は他を止揚することである。これは止揚的媒介であり、要するに媒介=同一性(同質性)なのである。
 しかし、高橋は、〈同〉に止揚不可能な異他性ないし異質性からの媒介について語ろうとしている。それは他〈への〉媒介ではなくて、他〈からの〉触発的媒介であるといっていい。
 自己または〈同〉は、この根源的他性を同化=止揚することはできない。おそらくただ排除することができるだけだ。しかしむしろ逆に自己または〈同〉の方こそが、根源的他性から排除され切り離されるという受動性によらなければ成立しえないのである。

 根源的なパッシヴィテ、受動性・受難性・情態性というべきパトスの様態がどうしても存在することの基底には、風の掻爬の痕跡として、或いは、燔祭の黒き精神外傷として、烙印のように焼きついている。

 これはどういうことか。――存在なき受動性としてのパッセが、通過とも過去とも受動とも消極ともいいがたいパトスとして、すなわち〈純粋様相〉としか言い得ないような何かが、時間と存在に先立つ出来事としてある、ということだ。
 おそらくそれは、出来事それ自身における根源的な分極化の運動を暗示している。

 パトスとトポスへの分極。一方は消極してゆき、もう一方は積極してゆくような陰陽の切断だ。それは陰極(-)と陽極(+)へと〈道〉という風の通行が起きて、ゼロの太極が生成し分化する運動であるといってよい。

 わたしは思わぬところで中国古代哲学のヴィジョンの驚くべき鋭さを再発見することになってしまった。
 しかし、このことは些かも「東洋回帰」などという、わたしが最も軽蔑しまた警戒するあの蒙昧主義を意味するものではない。わたしは東西の分裂を統合しつつ異化的に〈今ここ〉〈この私〉において創造しているからである。むしろ、このように語ることによって、東洋の曖昧で愚かな形而上学の徹底的な批判が開始するのだ。わたしは東洋の精神的独自性だの文化的優位性だのといった世迷いごとを如何にも言いたげにしているみにくい思想の顔が嫌いだ。
 わたしは日本人でもユダヤ人でもギリシア人でも中国人でもインド人でもアラブ人でもヨーロッパ人でもアメリカ人でもありたくない。そんな奴らなどくたばれ!と思っているのである。
 むしろわたしは地球人であり、そして、そうであるよりもむしろ一個の〈宇宙人〉である。
 そして、この〈宇宙人〉こそ、わたしが見出すべき〈この私〉の究極の姿でなければならない。

 何故というに、宇宙的(universal)であるとはとりもなおさず普遍的であるということを意味するからであり、そしてこの宇宙性=普遍性のただなかにおいてしか、単独的な〈この私〉は見出され得ないが故に。

 単独的な実存〈この私〉を柄谷行人は社会性としての普遍性において捉えようとした。だが、それは片手落ちでありまた不徹底であるとわたしは考える。

 普遍性は社会性などよりもはるかに貧しい宇宙性のなかにこそ見いだされねばならない。宇宙性とはもはや独我論すら成り立ち得ないような徹底的な孤独、ついには自己同一性の自己崩壊にまで到るような厳格な破壊の孤独の中に見出されなければ全く意味がないし、そして単に空虚なだけだからだ。
 宇宙の中に身を置くことは端的に破滅である。しかし破滅しないものにどうして〈超人〉を、すなわち、一個の単純な人間を見出すことができるというのか。

 厳密にニーチェ的な意味における〈超人〉とはこの〈宇宙人〉としての〈この私〉のことである。
 わたしは、全てが覆り滅び去った後、再び舞い戻ってきてしまった軸の時代の思想家として、己れをこの宇宙の極としての〈この私〉の上に回転させなければならない。
 美しいものは星座である。わたしは双眸を大きく瞠り、大宇宙の荘厳のなかで最初に思考したであろうシュメールのマギの末裔としてのみ己れをアイデンティファイするであろう。

 しかし、この〈この私〉は、ただ宇宙のなかにそれを見出したという状態だけであるなら、それは未だに死んでいる。そして大宇宙は暗く、天に一個の星座も無い。
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# by novalis666 | 2005-02-01 03:51 | 考察